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浅井久政夫人画像…!?

気分転換に、ふと史料編纂所のホームページデータベースを見ていたら…


茶々姫をたどる汐路にて


浅井久政夫人画像…だと…


持明院蔵ということですが、

確かに、高野山で茶々姫は阿古さんの供養もされています。

阿古さんの画像が存在するのでしょうか…

もしくは「した」のかも知れません。

(ひょっとしたら一緒に供養されている万福丸の画像もあったのだろうか…)


一応こちらに明記されている出典元を確認してみますが、どちらも画像は掲載されていないということですので…

阿古さん好きなので、あるのならば是が非でも見てみたいです!


また試験どころじゃなくなったぜ…

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完子と随心院

以前「お江岐阜出生説」を取り上げさせていただいた『泰巖宗安記』さんに、完子に関する情報が掲載されています。

→*豊臣完子(『泰巖宗安記』)


完子(さだこ)といえば、お江と羽柴秀勝の娘ですが、徳川に嫁いだお江に代わって茶々姫が手元で慈しみ育てた、茶々姫のもう一人の”子”。

貴婦人として成長したであろう完子は、茶々姫の子(「猶子」)として、九条忠栄の妻となります。


これだけ重要で微妙なポジションにいるにもかかわらず、完子は忠栄との間に設けた子女以外、詳しい情報を得る機会がありませんでした。

夫忠栄(幸家)は関白となりますから、完子もまた北政所と呼ばれる立場となったはず。それなのに、没年も分からなければ院号も…と不思議に思って史料を当たっていたいたのですが、その答えは随心院にあったのですね。


k2さんのお写真を拝見させていただいたところ、供養塔には「天真院従二位本光國成大姉」と彫られています。

没日は「万治元(1658)年八月十八日」(記事より)ということですので、数えで66歳のときに亡くなられたということのようです(追記:出生年について確証はないそうです)。

一般的には完子は従三位とされていますが、こちらでは従二位となっていますね。どちらかが誤りなのか、追贈なのか、まだわかりません。

調べてみると、完子は生前に随心院の薬医門、玄関、書院を寄贈しているようです。

あまり伝わらなかったのは、天真院こと「九条家縁の女性」=お江として誤伝してしまったからでしょうか。そういえばお江と完子を混同して、お江が九条家に嫁いだという説がありましたが、これはこのあたりが原因なのでしょうか。

何にしろ、私は今日まで存じ上げませんでした…無念。


随心院と完子の関係ですが、随心院は代々九条家の子息が入室していたようで、完子の婚礼にも夫忠栄の兄弟増孝が出席していますし、その次の代は完子の三男栄厳が入室しています。完子にとってとても浅からぬ縁の寺院だったのですね。


その他『東福寺誌』に完子の葬儀について記載があるとか。『東福寺誌』か…ノーマークでした…。手に入る史料のようなので、早速注文しました。完子に関する情報はもちろん、秀吉時代から何かと関わりのあるお寺ですので、届くのが楽しみです。

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お江の出生地について

9月あたりから関連書籍がいろいろと出版されていて、いよいよ大河ドラマが迫ってきた、という感じですね。


今回は、mixiで教えていただいたk2さんのブログ『泰巖宗安記』 に、お江の出生地についてとても興味深い記事を書かれていましたので、ご紹介したいと思います。


お江の出生地といえば、私も例にたがわず、小谷城下であると思っておりました。

これまでこの説に対する反論は、「清水谷屋敷」か「小谷城山上の屋敷」か…というくらいで、小谷付近で生まれたということに対する反論は見たことがありません。


k2さんは小谷城説に対して、二つの史料を根拠に岐阜説を唱えておられます。



濃州殉行記


濃州殉行記に、信長の「女弟」つまり妹が長政自殺の後、岐阜に逃れて一女を生むと言う記述見つけました。

是が崇源院、つまり「江」。お市は、身重で小谷城を逃れた事になる。

逆に、身重であった事が、長政をして逃れるよう勧めたと言う憶測も可能かも知れません。


引用元記事:「江は岐阜生まれ」(http://taigan.blog104.fc2.com/blog-entry-642.html



尾濃葉栗見聞集 岐阜志略(昭和9年7月)


因幡宮社家傳の項に
大御台様 御父浅井備前守御母信長公妹 備前守滅亡の時内室懐胎にて岐阜へ逃れ、岐阜にて女子出産。
此の女子後に台徳院様へ宮仕えへ給ひ、後大御台様と申す由。岐阜御産所ゆえ因幡宮御信仰ありし 也。


「江は岐阜生まれ 2」(http://taigan.blog104.fc2.com/blog-entry-658.html

これまで小谷城説がとられていたのは、

お江の出生について書かれている史料が発見されていなかった、もしくは知られていなかった

というのが一番大きな原因だと思います。

そしてお江を身ごもったまま城を落ち延びたということが想像しにくかったから、というのもあるでしょうか。
そもそも長く織田家との戦争状態にあったにも関わらず、お市が織田家に返されることなく、さらにはお江が生まれた、ということ自体が驚きをもって語られています。


こうして郷土史とはいえ、お江の出生について記された史料があるということは、この説も取り上げられてしかるべきだと私は思います。

しかも、お江については将軍御台所・中宮生母とはいえ、大河ドラマ以前にはそこまで注目された女性ではありません。

そんな彼女についての記事であればこそ、信憑性があるのではないかしら、と私は思います。

それにしても、私も何の疑いもなく小谷城出生説を受け入れておりました。

いつもながら、客観的・論理的に考察する能力が乏しい自分を反省です。



追記:

うーん…

お江が小谷のことを人に言われるまで自分の故郷だと知らなかった…というようなものをどこかで読んだと思ったのだけど…

小谷寺と関わっていたように思ったので、小谷寺の事件の一連が書かれている『本光國師日記』をざっと探したけど、見当たらない。


私の勘違いかなあ?

(k2さんとこでは当代記かな…とか書いてますが、勘違いの様です;当代記にもなかった。)


もうちょっと探します(´・ω・`)

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大坂城山里曲輪(山里丸)跡発掘調査

先日、大坂城発掘調査の記事が掲載されました。

落城当時の山里曲輪の様子が明らかになってきたようです。



そういえば、何年も前の話になるのですが、

山里曲輪を訪れたときに、茶々姫たちの自刃跡として


①「自刃の碑」がある場所と、

②現在本丸とつながるスロープがあるあたり


の2箇所の説を教えていただきました。


その時点でも、おそらく②だろうというお話を教えていただいたのですが、

まさにこの件が発掘調査で証明されたという形になりますね。



その時、特に印象に残ったお話…


山里曲輪の端にはひっそりと祠があります。

「三十二義士」の供養のため、まっ白い観音様がまつられています。


ここは学術的にはあまり価値のない場所ですので、注目されることは少ないのですが、

この観音様はすこしうつむいていらっしゃって、

その視線の先がだいたい②自刃跡推定地に当たるのでは…というお話でした。


もともとこの祠はちょっとずれた場所にあって、観音様も別の方向を向いていたようなのですが、

いろんな偶然が重なって、茶々姫たち最期の地を見つめている…


そんなお話でした。



ともかく、当時の真実が少しでも明らかになるのは素晴らしいことです。

発掘や研究担当の先生方、ありがとうございます。


そして、どこが真実の自刃の地であろうとも、

石碑や祠に込められた供養の気持ちは少しも揺らぐことのないものですね。




以下、Yahoo!ニュースより転載します。


まずは読売新聞の記事です。

「秀頼と淀殿が自刃、「山里丸」の遺構見つかる」

(6月26日15時48分配信 読売新聞


 大坂夏の陣(1615年)で、豊臣秀吉の子・秀頼とその母・淀殿が自刃した場所とされる大坂城(大阪市中央区)の区画「山里丸(やまざとまる)」とみられる遺構の一部が、大阪市博物館協会大阪文化財研究所の調査で初めて出土した。

 地表から約4メートルの深さに埋もれ、落城時の火災を示す焼土層が積もっていることが確認された。

 山里丸は、秀吉が千利休らと茶会を催した茶室などがあったとされる。遺構は、南北に延びる石組み溝(幅35センチ)で、長さ6メートル分を確認。溝の側面には高さ35センチ、長さ50センチ、幅20センチの石が並び、底には平らな石などが敷いてあった。中から見つかった陶磁器から、年代を特定した。

 焼土層は厚さ50センチ。焼けて変形した瓦も大量に出土した。溝は、徳川幕府が1624年に始めた城の再築で埋められたとみられる。

 調査成果は7月28日~9月20日、大阪市中央区の大阪歴史博物館で展示する。


2010年6月26日15時48分 読売新聞)


(転載元:http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20100626-OYT1T00581.htm



続いて、おなじく読売新聞のサイトより。


内容がより詳しくなっています。


「秀頼自刃の地」遺構確認…大坂夏の陣 生々しい焼土層

 大坂夏の陣(1615年)で、豊臣秀頼と淀殿らが自刃した地とされる大坂城(大阪市中央区)の一角、「山里丸」の遺構の一部が、大阪市博物館協会大阪文化財研究所の調査で初めて出土した。地表から約4メートルの深さに埋もれ、落城時の火災を示す焼土層が生々しく積もっていた。山里丸は、秀吉が千利休らと茶会を催した茶室などがあったとされる場所。豊臣の栄華と悲劇の舞台が顔をのぞかせた。

 遺構は、南北に延びる石組み溝(幅35センチ)で、長さ6メートル分を確認。溝の側面には高さ35センチ、長さ50センチ、幅20センチの石が並び、底には平らな石などが敷いてあった。中から見つかった陶磁器から、豊臣期のものとわかった。この近くに井戸があったとする絵図があり、排水を流した溝らしい。


 焼土層は厚さ50センチ。焼けて変形した瓦も大量に出土し、近くで猛烈な火災があったことをうかがわせる。溝は、徳川幕府が1624年に始めた城の再築で埋められたとみられる。

 豊臣期の山里丸は、絵図などから、天守閣などがある「本丸」の北側で、今回出た遺構付近だと推定されていたが、実態は不明だった。

 松尾信裕・大阪城天守閣館長は「山里丸は記録も少なかった。かなり深く埋もれていることがわかり、溝の方向から、敷地の使い方が推測できる。引き続き調査し、全体像を明らかにしてほしい」と話している。

 調査成果は7月28日~9月20日、大阪市中央区の大阪歴史博物館の特集展示「新発見! なにわの考古学2010」で展示する。


2010年6月26日 読売新聞)



(転載元:http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/20100626-OYO8T00588.htm



最後に、産経新聞の記事です。


某テレビ局もそうなのですが、ここまで「淀君」にこだわっているのはなぜでしょうか…

今回のように学術的な記事だと、内容よりそちらに強く違和感を感じていしまいます。

(意訳…: そんなに茶々姫がお嫌いですか?)

「大坂夏の陣の焼損瓦大量出土 秀頼と淀君の自刃の地」

(6月26日2時7分配信 産経新聞


 豊臣秀吉の子・秀頼とその母・淀君が慶長20(1615)年の大坂夏の陣で徳川家康に敗れて自刃した場所とされる大阪城天守閣(大阪市中央区)北側の区画「山里丸(やまざとまる)」で、夏の陣で焼けたと推定される大量の瓦や壁土が大阪市博物館協会・大阪文化財研究所の発掘で見つかっていたことが25日、分かった。秀吉の時代に築かれた石組み溝も出土し、大坂城築城から落城までの豊臣家の栄枯盛衰を物語る貴重な資料になりそうだ。

 調査は、山里丸の石段改修工事に先立って行われ、地表から約3メートル掘り下げたところ、厚さ50センチ以上の焼けた土の堆積(たいせき)層が確認された。

 堆積層からは、16世紀末ごろの瓦が大量に見つかり、多くが高温で焼けて赤く変色。焼けこげた壁土や炭も出土した。夏の陣では慶長20年5月7日(旧暦)、天守閣など城内がほぼ全焼したとされ、今回の瓦や壁土はその一部という。

 一方、石組み溝は焼けた土の堆積層のすぐ下から、南北方向に長さ約6メートル分が見つかり、細長く加工した石を両側に並べていた。山里丸には当時、茶室があり、秀吉が茶人・千利休らを招いて茶会を開いたとされる。今回見つかった石組み溝は、こうした施設の一部の可能性もあるという。

 家康の側近や当時の大名の記録によると、夏の陣で天守閣が炎上した翌日の5月8日、23歳の秀頼が淀君とともに山里丸の焼け残った櫓(やぐら)にこもって自刃したと記録。現在は「自刃の地」と記された記念碑が建てられている。

 山里丸で秀吉築城時の施設跡と、焼けた瓦などが同時に見つかったのは今回が初めてで、大坂城が夏の陣で大規模に炎上したことを考古学的に裏付けることになった。調査担当の大庭重信学芸員は「豊臣家の悲劇の物証となる成果」と話した。

 現場はすでに埋め戻され、瓦などは7月28日から大阪市中央区の大阪歴史博物館で開かれる「新発見・なにわの考古2010」で9月20日まで展示される。



(転載元:http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/408343/

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幻の督(江)の娘

『お市と三姉妹の生涯 第2部』というブログ(http://blog.ko-blog.jp/nhktaiga2011kinen/ )に導かれて、督(江)の嫁ぎ先、尾張大野の歴史を調べられているブログを発見しました。

町の歴史ホリオコシ隊
http://owarioono.blog62.fc2.com/

督と最初の夫、佐治一成(与九郎)のことについて書かれてあったので紹介します。

そういえば佐治家とのことは、半年ほどの短い縁として軽視されがちだし、私も詳しく知りません。
こちらで佐治家のこと、尾張大野のことを勉強させていただこうと思っています。

大河効果は良くも悪くも混沌とした情報の暴走を生みがちですが、それにしてもこのように地道に郷土史を大切にしようとされている方々の活動が発掘されるのは、なによりも良い影響ですよね^^

http://owarioono.blog62.fc2.com/blog-entry-57.html
(「おきた・おぬいの存在」))
http://owarioono.blog62.fc2.com/blog-entry-71.html
(「おきた・おぬい(2)」)

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