FC2ブログ

PREV | PAGE-SELECT |

≫ EDIT

各務兵庫女

生没年: 不詳(大坂の陣を生き延びたのは確かです)



各務家


父:各務兵庫助元正 (各務氏は五女)

「武功雑記」によると、各務氏の実家は森家の筆頭家老の家柄でした。 父「各務兵庫」こと各務兵庫助元正も長可・忠政の代の家老で美濃岩村城の城代です。 元正の時代に行われた改築・検地は有名なようです。 「鬼兵庫」と呼ばれ、蒲生氏郷からの再三のラブコールもはねつけたとか。

兄:
四郎兵衛 …1608年に自害
藤兵衛 …妻は名護屋山三郎の妹

姉:
紀伊(箭室妙智信尼)…森重政(伊豆守)妻。1633年に死去。
竹光伊豆妻 …夫は大坂衆。大坂落城後、枚方にて切腹。
田中七郎兵衛妻 …七郎兵衛は丹後の人
各務勝太夫妻 …勝太夫は美作の人


夫:京極高知

子:
満吉(幼名:辰千代、称:源三郎、三左衛門、官職:式部、田中姓を称す 〔寛政重修諸家譜』〕)
澤良政(図書)妻〔武功雑記、寛政重修諸家譜〕



茶々姫の侍女


各務氏は茶々姫の侍女としてほとんど知られていません。 今のところ唯一各務氏の足跡が見える「武功雑記」から彼女の逸話を拾ってみましょう。
茶々姫の侍女であった各務氏は大坂の陣前のある日、茶々姫に呼び出されます。 そこで姫は各務氏に対し、あたら若い命を散らすことを不憫に思い、大坂を去るように命じました。 しかし各務氏はその申し出を固辞し、小脇差を腰に差して覚悟の程を示し、茶々姫に仕え続けたといいます。

さすが「鬼兵庫」の娘らしい各務氏の勇敢さは言うまでもなく、侍女に優しかったという茶々姫を裏付けるような逸話です。
その出自はもとよりこの逸話から、各務氏は茶々姫から直々に対面を許される高い地位にあったことも分かります。



大坂の陣の後


上記のように、大坂の陣に際しても退去しない意思を示した各務氏ですが、 実際は大坂落城後に京極高知の側室となったといいます(武功)。
京極家は大坂の陣において豊臣家と相対せざるをえない立場でしたが、 高知の姉は秀吉の妻松の丸殿(龍)、義姉は茶々姫の妹初(常高院)という深い間柄でした。 しかも秀頼の息子国松丸の養育は京極家で引き受け、大坂の陣に大坂衆として参戦した茶々姫や初姫の弟喜八郎(作庵) もまた京極家で引き受け面倒を引き受けています。
また、同じ侍女の間柄である菊(山口氏)も大坂落城後松の丸殿を頼ったという記録を「おきく物語(浪華城菊物語)」に残しています。

残念ながら時勢には逆らえず、京極家で育てた国松丸を京極家の手で捕らえる結果となりましたが、 大坂城から国松丸を落とす際に、茶々姫は各務氏に託すという形をとって京極家に逃がしたのかもしれません。 ただ逃げろ、というだけでは逃げなかった各務氏の勇敢さを買う形で京極家の龍や初のもとに逃がし、 その元にいるうちに高知と知り合い、娘を儲けたという流れだったかもしれません。
国松丸との関わりは私の想像ですが、忠義の固い各務氏が結果的に大坂落城後も生き延びたという流れと周囲の事情を鑑みるとこの考えはあながち間違っていないように思うのです。



略年表



・慶長5(1600)年
父各務元正死去。

・慶長13(1608)年
10月5日、兄四郎兵衛自害。

・慶長19(1614)年ごろ
茶々姫に退去を命じられるが固辞。

・慶長20年(1615)年以降
大坂の陣終結。
その後、京極家に縁付き高知の側室となる。

〔ひとりごと〕
『大日本史料』を読んでいてこの史料に出会ったときに鳥肌が立ちました。 各務氏の忠義ももちろんですが、姫の真実の一端に触れたような気がしました。
原文では『淀殿不便ヲ加ヘ退カシメント…』という記事なので、現代文風に解釈すると逆の解釈をしがちですが、 「不便を加える」は「不憫に思う」という解釈になります。


女官/女房/侍女 目次一覧

| 女官/女房/侍女 | 23:54 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

小督

生没年: 不詳(大坂の陣を生き延びたのは確かです)

名: 小督
「醍醐花見和歌短冊」に「ご五う」という女性が見えるが、年代的に別人か

戒名: 妙源院〔葉隠〕

父: 藤本太郎右衛門

主: 松平忠明

子: 牟利〔鍋島家​譜​ ​(​肥​前​蓮​池​)〕または利〔龍​造​寺​並鍋島家​譜〕
鍋島忠直妻のち鍋島直澄妻、鍋島光茂及び一女の母
元和三年十一月十五日大坂で誕生、正保二年一月二十七日江戸麻布屋敷で没
恵照院殿心月妙泉大姉〔龍​造​寺​並鍋島家​譜〕、慧照院心月妙泉〔鍋島家​譜​ ​(​肥​前​蓮​池​)〕
肥前慶誾寺に葬られ、のちに蓮池宗眼寺に改装される。



もう一人の“小督”


「鍋島勝茂譜考補」という史料に眠る女性です。
幼いころより侍女として大坂城でつかえていたが、後に千(「秀頼公ノ北ノ方」)に仕えた、とあります。
はっきりとは書いてありませんが、千が嫁いできたのちに おそらく茶々姫が千姫と年の近い小督に目をとめて、千の侍女としたのでしょう。

政略的に考えれば、このようにもともと豊臣家に仕えていた侍女を千付きにするということは、 千の周りを守る徳川家からの侍女たちをけん制する意図もあったのでしょう。
しかし、あえて年若い小督を選んだのは、やはり見知らぬ土地にきて怯えているだろう可愛い姪を思っての人選であったと思われます。
特に、千の母であるお江(「小督」とも書く)と同じ名前を持つ彼女だったというところに何か感じるところがありますね。

彼女のその後は、 千脱出の際数名の侍女がこれに従い(大堀に隠れた、という描写があります)、松平忠明(「松平下総守」)に匿われたとあります。
そして、これを喜んだ家康に、忠明への褒美として小督が下げ渡されたようです。
家康の声掛かりで忠明の妾となった小督は、やがて娘(牟利)を産み、その血は鍋島家に繋がってゆきました。

千姫脱出の描写は他の史料と食い違う部分があるものの、千姫退城につき従い大坂の陣を生き延びたというところは間違いなさそうです。

なお、醍醐の花見に参加した侍女のなかに、未だ出自の明らかにされていない「ご五う」という侍女は彼女のことではないでしょうか。


女官/女房/侍女 目次一覧

| 女官/女房/侍女 | 23:53 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

正栄尼

生年: 不詳
没年: 慶長二十(1615)年五月七日

名: なか
「正永ハ御中ト云シ女ナリ内蔵介母也」〔武功雑記〕

称: おなかの御方(おなあの御方)?→正栄尼(夫の死去後、落飾し尼となり、「正栄」と号す)

・「正ゑいさま」(『本光国師日記』)
・「庄栄」、「正栄 渡邊内蔵助母」(『土屋知貞私記』)
・「正永」〔浅井一政自記、豊内記〕
・「正栄殿」(『続撰清正記』)
・「永原正栄尼」(『難波戦記』)
・「渡邊正栄様」(『清涼史論』)
・「正栄尼 渡邊内蔵助母」、「渡邊内蔵助母 正永尼」(『駿府記』)
「永原之正栄尼」、「衣原正栄尼」(『元寛日記』)
・「正栄尼」(『慶元記』)
・「正永」(『慶長見聞録』)
・「少栄」(『北川遺書記』)
・「正栄尼」(『駿府政事録』)
・「正栄尼」(『編年大略』)
・「正栄」(『落穂集』)
・「正栄」(「大坂物語」)
・「中原常永」、「渡邊内蔵介母正永」〔個人蔵大坂夏の陣図(江戸時代後期)〕

肩書:「大坂奥方女臈頭云随一」〔天正記聞〕



祖父: 永原仁左衛門〔天正記聞〕

母: 「永誉寿慶大姉 渡辺正栄並永原福左衛門母 西暢真光妻」〔清凉寺過去帳〕
・明智光秀前妻〔天正記聞〕

実父:
・明智光秀〔天正記聞〕

正栄尼の素性


「天正記聞」

光秀公前妻者、江州永原之城主永原大炊助嫡永原仁左衛門娘也、此腹生女子、母子共帰故郷、此女子成長而、秀吉家臣嫁渡部宮内少輔、生渡部内蔵助、宮内少輔死後、内蔵助母成尼、号渡部正栄、大坂奥方女臈頭云随一、内蔵助儀於大坂冬夏之御軍法砌、御相談之席、軍術槍達人有武功、大坂落城之節、出城外戦、見掛城火、急帰城中、正栄妻子共入千畳敷、然處正栄云、武士之最後者、後世之評判先祖為面目間、内蔵助自害之體見届度由、内蔵助聞之悦、即席子共刺殺、腹十文字切、正栄大感介錯、内蔵助者、山城国一来寺城主、八万石、渡部出雲守孫、同宮内少嫡子也、正栄向娵云、其方者田丸城主之息女、我身者天下取之娘、於最後何掛人手乎、尤領掌而、両人共令自害、飛入焔中、傍人視之、雖為女身、勇将之子孫者、末後異常人、可為諸人之手本、甚感之、内蔵助妻者勢州田丸城主四万五千石、牧村兵部大輔娘也、正栄亦有娘、ツルト云フ、



明智光秀の前妻は、近江永原城主大炊助の嫡男仁左衛門の女である。
光秀とこの女の間に女子がいた。母子共に帰郷して女子は母の故郷で成長した。
その後、秀吉の家臣である渡部宮内少輔(渡辺昌)に嫁ぎ、渡部内蔵助(渡辺糺)を産んだ。夫の死後、糺の母は尼となり正栄と号し、茶々姫(「大坂奥方」)の一番の女房頭であったという。
糺は大坂の陣において秀頼の相談相手であり、また軍術や槍の達人であり、武功を重ねた。大坂落城時には、城を出て戦ったが、城に火がついたことを見ると急ぎ城へ帰った。
千畳敷には正栄と糺の妻子がおり、正栄はが糺に向かって、「武士の最期は後世の評判、先祖の面目となる。わたしが糺の自害の様子を見届けましょう」といった。これを聞いて糺は悦び、子どもたちを刺したのち自ら腹を十文字に掻き切った。正栄は大変感じ入り、糺を介錯した。
糺は山城国の一来寺(一乗寺)城八万石の城主であった。渡辺出雲守の孫で、その子昌の嫡男にあたる。
正栄は糺の妻にむかって、「あなたは田丸城主の娘、わたしは天下取り(光秀)の娘。最期は他人の手にかかることはあってはならない」と言った。妻は納得し、手を合わせると二人ともに城を焼く焔に身を投じて自害した。
そばで見ていた者は、「女とは言ってもさすが勇将の子孫、最期も普通の人とは違う。皆は彼女たちを手本にすべきだ。」と大変感じ入ったという。
糺の妻は伊勢田丸四万五千石の城主牧村兵部大輔(利貞)の娘である。
正栄にはまた娘もおり、彼女の名をツルと言った。



「牧村兵部大輔」こと牧村利貞は春日局の側近祖心尼の父に当たる人ですが、田丸城主ではないそうです。(http://www.murocho.com/aji/koboku/koboku4.html)「田丸城主」が正しいならば、糺の妻は稲葉道通の娘ということになります。

まとめてみました。

青字は『清涼寺過去帳 より』)
永原大炊助 ━━ 仁左衛門 ━━ 明智光秀前妻 ━━ 正栄尼(往相院西誉正栄大姉

渡辺出雲守 ━━ 宮内少輔(昌/源誉道把居士/妻:正栄尼〔往相院西誉正栄大姉〕) ━━ 内蔵助(糺)、正心院殿宝樹水庵大姉(ツル?)、永誉寿慶大姉

糺(妻:牧村利貞or稲葉道通女)━━ 守、量寿栄薫信尼雲龍童子
                                     

某書で、正栄尼が浅井長政の娘であると受け取れる文章に悩んで数年…
正栄尼がまさか明智光秀の娘だとは思いもよりませんでした。

他の史料に見えないのは、やはり光秀の娘という経歴を当時はおおっぴらにはしていなかったのでしょうね。とはいえ、さすがに主である茶々姫がこれを知らなかったということはありえません。
当時の世情を考えると、さすがに光秀の娘であると出自を偽称するということはないと思いますが…

鐘銘事件の際、茶々姫の乳母である大蔵卿局、徳川家配下に家族のいる二位局とともに駿府へ使者として下ったのは、この血縁によるものもあったのでしょう。

細川忠興の妻玉(ガラシャ)は、自分は光秀の娘であることを憚って(正栄尼の異母妹ということになりますね)、大名夫人たちが茶々姫に面会する際に遠慮したという史料もありますが、茶々姫が明智光秀の縁者を遠ざけていたということはなかったことがわかります。
同時に、茶々姫のそばで育った江が福(春日局)を明智光秀の血縁だからと言って疎んでいたというのもまた事実ではないこともわかります。



養父?:
「西暢真光信士 江州永原住渡辺正栄並永原福左衛門父 石塔有之」〔清凉寺過去帳〕
清涼寺墓地に墓地があったようですが現在は不明。


「永原福左衛門」〔清凉寺過去帳〕




夫: 渡邊宮内少輔

渡邊宮内少輔「昌」(渡邊出雲守告の次男)。もとは山城国田中の人。出雲守は松永久秀に仕え、宮内少輔は秀吉に仕えたという。〔寛政重修諸家譜〕
渡邊宮内少輔「登」〔本朝武芸小伝〕
渡邊「民部少輔」、摂津の人〔続武家閑談〕
「源誉道抱禅定門 渡邊宮内 内蔵助父」〔諸寺過去帳(高野山過去帳)〕
「源誉道把居士 渡辺宮内正栄夫(二十日)」〔清涼寺過去帳〕

▽ 清凉寺 渡辺宮内墓所
※但し、没日など早崎兵庫〔「蓮池院源叟休把居士」〕と混同が見られる
渡邊宮内少輔墓


子:
・渡辺糺
「源大静閑信士 渡邊内蔵助」(『清凉寺過去帳』)
秀頼の槍術師範〔本朝武芸小伝〕
正栄尼が介錯した
近江へ逃れたという説がある〔続武家閑談〕

▽ 清凉寺 渡辺糺墓所
渡邊糺墓

糺の妻
・くう「徳芳妙寿禅定尼 慶長十四年二月一日/渡辺権之助内クウ」
・伊勢田丸四万五千石の城主牧村兵部大輔(利貞)の娘〔天正記聞〕
・祖心尼?(稲葉家の記録)

孫(糺の子):
・守(権兵衛)
…大坂落城時、乳母に助けられ、南禅寺の僧侶となる。後に還俗して徳川綱重に仕える〔続武家閑談、寛政重修諸家譜〕
・量寿栄薫信尼〔清涼寺過去帳〕
・雲龍童子〔清涼寺過去帳〕


・ツル
「正心院殿宝樹水庵大姉 万治四年二月(二十一日)/往相院女道三玄鑑室」〔清涼寺過去帳〕
「正栄亦有娘、ツルト云フ、」〔天正記聞〕

娘婿・今大路玄鑑
「前道三亀渓玄鑑法印 寛永三年九月十九日」〔清凉寺過去帳〕
・親純 兵部大輔。江が和子を産む際、その難産を助けた。江の臨終の際にも病を押して駆けつけようとするも、寛永三年九月十九日、道中で病死。享年五十歳。〔寛永諸家系図伝〕
子に祐智(愛宕教学院)、道三玄鎮(親昌)、および女子四人あり〔寛永諸家系図伝〕

▽ 清凉寺 今大路玄鑑、ツル夫妻墓地
渡邊ツル夫妻墓

娘②
・祐清
「以春軒和渓宗仲禅者 慶長十一年九月(八日)/浦野祐清夫渡辺正栄一門也」
「廓雲了性童子 丙午年(慶長十一年?)八月(十九日)/浦野祐清息往想院ノ孫」

娘③
・永誉寿慶大姉(慶長十六年六月没)〔清涼寺過去帳〕



彼女が正栄尼という名前で登場する最も早い史料は、一次史料ではありませんが『続撰清正記』で、慶長十六年四月二日に登場しています。

その後の活躍の割には、それ以前に名前が全く見えないため、この辺りが夫の死と正栄尼の出家の時期なのではないだろうか…と推測しています。

正栄尼は大坂の陣の最中糺とともに戦火に歿しますが、孫(渡辺守/「陽春院徳林徹居士 元禄三年正月四日 渡辺内蔵助権兵衛正栄孫」〔清凉寺過去帳〕)が乳母の機転で生還したこともあって、大坂方の戦没者の中ではかなり手厚く供養されています。



戒名:
「往想院西誉正栄 永原氏 渡邊宮内室 内蔵助等母 五月七日自殺於大坂城」〔諸寺過去帳(高野山過去帳)〕
「渡邊内蔵助源尚 宮内少輔某男、元和元年五月七日、於大坂戦死、源太静間
 源尚母 同日自殺、往想院西誉正栄」〔諸寺過去帳〕
「往相院西誉正栄大姉 慶長廿年五月七日大坂討死 渡辺内蔵助母 宮内妻 祠堂有之」〔清涼寺過去帳〕
「往想院西誉正栄大姉」〔清涼史論、伝渡辺正栄尼画像〕

・清凉寺位牌
(表面)「往想院西誉正栄大姉/岳樹清光(永原忠左衛門)/源太静閑(渡辺糺)/量寿栄薫(糺女) 各位」
(裏面)「慶長廿年五月七日/大阪討死/当寺大旦那」

▽ 清凉寺 正栄尼墓所
正栄尼墓



正栄尼の周りには、実家である永原の一族が集っていたようで、渡邊氏だけではなく永原氏も少なくない人が正栄尼に殉じています。

渡邊氏:
「源大静閑信士 渡邊内蔵助」、「量寿栄薫信尼 内蔵助女」、「雲龍童子 同上息」〔清涼寺過去帳〕
「雲龍童子 渡邊内蔵助子息 五月八日」〔諸寺過去帳(高野山過去帳)〕

永原氏:
「獄樹清光信士 永原忠左衛門」、「棄大良雲信尼 忠左衛門妻」、「永宏常有信士 忠左衛門息忠兵衛」、「隆巌秀知信尼 忠兵衛妻」、「性翁高月信士 永原福太郎」



略年表

・慶長3年
3月15日、醍醐の花見。
「桜花かかるみゆきに相生の 松も千歳を君にひかれて   なか」
「君か代にあふうれしさをみゆき山 花やいろ香にいでてみすらむ   なか」
8月18日、豊臣秀吉没。

・慶長19(1614)年
8月、方広寺の鐘銘問題に際し、大蔵卿局らとともに駿府へ下向する。
12月、大坂冬の陣の講和の際、徳川家康のもとに再度の血判を求めに常高院や二位局とともに使者に立つ。

・慶長20、元和元(1615)年
大坂夏の陣がおこる。
5月7日、糺を介錯し自害する。
某日、清涼寺にて葬式が営まれる〔清涼史略〕

・元和3(1618)年
5月7日、三回忌法要が栖霞寺で営まれる〔清涼史略〕

・元和7(1622)年
5月7日、七回忌法要が清涼寺で営まれる〔清涼史略〕


女官/女房/侍女 目次一覧

| 女官/女房/侍女 | 23:52 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

高橋古屋

生没年: 不詳(大坂の陣を生き延びたのは確かです)

名: 古也〔高橋家系図〕

「醍醐花見短冊」に「こやや」という女性が見えるが、同一人物?
「我が君はちよもみゆきの山桜 花もめぐみに相生の松」

肩書: 「秀頼公ノ乳母也」〔高橋家系図〕

父: 高橋家勝
弟: 家平(妻は大谷吉継の姉)

甥姪(家平の子たち):
・嘉胤(大谷吉継の養子、大坂の陣で秀頼と最期を共にした)
・長女(眞田信繁の妻)
・家春(木下山城守、頼継?):木下家定の養子、妻は石田三成の妹、慶長10年6月17日没)
・次女(「松平飛騨守」(奥平忠政?忠隆?)の「妻室」)
・春長(加右衛門、馬渕氏の養子、「前田加賀守」に仕える)
・「黒柳」(木村七兵衛【木村重成の弟】の妻、大坂落城後は近江坂本へ移住の後黒柳と改める)
…木村重成の妻青柳は、大坂の陣の当時身重だったため、近江馬渕の親戚を頼って大坂城を後にしたと伝わりますが、この黒柳との関連は不明
・吉家(三郎四郎、秀頼の乳母であった古也の縁で加藤清正に客人待遇で迎えられるが、加藤家滅亡後出家する。寛文5年2月11日没)

夫: 下妻式部 …秀頼逝去後本願寺に嫁す



「高橋系図」に伝わる乳母高橋氏とその一族


以上に挙げた甥や姪だけでなく、叔父二人は本能寺の変に巻き込まれ家春(虎松)は本能寺で信長に従って戦死、弟勝春(藤丸)は二条御所で信忠に従って戦死するなど、錚々たる顔ぶれです。



女官/女房/侍女 目次一覧

| 女官/女房/侍女 | 23:51 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

織田昌澄母

生没年: 不詳

名: 不詳
肩書: 「そ(織田主水昌澄)の母は大坂の北方(千)につかえたりとぞ」〔徳川実紀〕

父: 明智光秀〔明智系図、織田系図、系図纂要〕
母:

子:
・昌澄(信重、主水、大坂の陣で大坂方につく)〔寛政重修諸家譜、徳川実紀〕
(以下、史料上生母不詳の信澄の子)
・元信(織田信雄のち豊臣秀頼に仕える)〔寛永諸家系図伝〕
・京極高知妻(早世)〔寛政重修諸家譜〕


女官/女房/侍女 目次一覧

| 女官/女房/侍女 | 23:50 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

PREV | PAGE-SELECT |