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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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第三十二話「江戸の鬼」【大河ドラマ感想】

 
江が江戸に行ってしまったら、私の乏しい知識関心は限界です。展開も相変わらずさして目新しいところが亡くなってしまいましたね…関ヶ原もあくまで豊臣vs徳川になりそう。残念だなあ。

今までもそうでしたが、今後は特に他の方の感想&ツッコミ記事を楽しみに拝読したいと思います。

○江の江戸下向と子々

『朝野旧聞襃藁』に慶長四年十二月江が江戸へ下向したという記載があるようです。
更に、『江の生涯』では「太田家文書」で、『江の生涯を歩く』では『長府毛利家文書』で江の江戸下向が慶長四年であったことが言及されています。
実際は劇中のようにこっそり(?)江戸に下ったわけではなく、秀吉の遺命と違えるため家康が茶々をはじめ公に伺いを立てての下向だったようです。家康が「他の女性に子が出来たら気の触りになるので」と言っているのが印象的な書状です。

前年の慶長三年に下向したのは、子々誕生の兼ね合いもあるのでしょうか。
『江の生涯』では母子関係の希薄さから子々は江の所生ではないとされていますが、個人的にはまだ何とも言えないです。
同書では名目上のこととされていますが、「象賢紀略」では「江戸御前様むすめ」と江の娘である旨の記述が、瑞龍院公親簡』では子々が加賀へ下向した際には江に進物があるとのこと…。同書に書かれているとおりに子々が慶長四年三月(『天徳夫人小伝』)、伏見で誕生ある説も否定してしまうには決定打が無いというのが、今のところの『長府毛利家書状』を踏まえた正直な感想です。
ちなみに、前述の『朝野~』では江(「若御台所」)が千を連れて江戸へ下向したという記載があるのみで、子々についての記載は無いようです。

子々と前田利常の子とされている光高については、子々の死後に光高の母(「筑州母儀」)が光高の縁談に反対したという記録があります(『細川家史料』)。この記録、解釈に間違いなければ光高は確かに子々の所生ではないことに…光高は嫡男なので、だいぶ驚きました。
その婚儀、本多忠刻と死別した千(「播磨之御姫様」/娘の勝かとも思ったのですが、勝は同年正月に池田光政へ輿入れしているんですよね…)との再婚話だったのですが(当然千も嫌がっています)、本当なら子々の実子ではなかったからかしら…と。

『江の生涯を歩く』でも言及されていましたが、姑であり義姉である玉泉院(織田永)宛の手紙で「禰々」と署名しているそうです(松尾美恵子氏の「『江戸の姫君』から『加賀の御前様』へ――珠姫の一生」)。本人は「ねね」という名前を通したのではないかという桐野氏のご指摘でしたので、私も現在のところ「ねね」(「子々」)を通すことにしています。

○大姥局

「おおばのつぼね」と読みますが、「姥」は乳母という意味で、まさに役割そのままの号をもつ女性です。本名は岡部かなといったそうです。
今度は嫁姑展開になりそうですが、姑である家康の妻築山殿や旭、秀忠の生母である愛(宝台院)が皆死去しているので、姑役割が大姥局に回ってきてしまったようです…気の毒な。彼女の縁者である静がのちに秀忠の妾となることからか…、大姥局が意図的に静を秀忠に添わせることになるのでしょうか。
この女性はどちらかというと、忠義者・賢女としてのエピソードのほうが残っているのですが…と思ったら、公式サイトにも載せられていますね。でもドラマでああいうキャラクターにしてしまったら台無しのような気がするのですが。

不遇な扱いをされる方はついかばいたくなる性分です…

当時の乳母は、大蔵卿局や春日局のように、養い君が成長したのちはその執事として側近くに仕え、養い君が権力の座についたときにはそれを支える存在として大いに活躍しました。大姥局もまたそのような存在だったのでしょう。
そのような当時の世相を考えると、貴人の乳母となる人を選ぶ基準には教養や利発さもとても重視されたことと思います。
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Comment

1. 子子の誕生の地

こんにちは。秋草です。
大姥局の描き方に違和感を感じてます。
イメージが違うと言いますか、なんでここまで怖くなっちゃったの、と言いますか・・・。でもコメディーなところ(数珠を取り出して祈り始めるなど)もあるのでなんとかしのいでいます。

ガラシャとの別れの挨拶は遺言ぽくてなんだかなあ、と思いました。予言者が多いです。本当に。

江の江戸下向と子子の誕生について考えたのですが、もしかしたら子子は伏見で育った可能性はないのでしょうか。
仮定として子子が慶長四年三月に伏見で誕生したとして、慶長四年十二月の江の江戸下向には一緒にいけなかったと思います。「江の生涯」でも赤子が長旅とともにすることの危険さが初(江の四女)の出生の項目で書かれていましたし、それならば『朝野~』に子子の記載がないのも納得できます。
また子子は江戸から越前へ輿入れしたと言われますが伏見から輿入れした可能性はないのでしょうか。この時まだ三歳の子子が江戸から越前までの長い距離の旅路に耐えられたのかどうか、疑問が残ります。また『三壺記』には子子を退屈させないように狂言・小謡などを輿の先で演じさせて慰めたとありますが、遠い旅路にそこまでの人を準備できたのでしょうか。子子の負担や人の準備などを考えると伏見からの輿入れの方が安全だと私は思うのですが・・・・。

2011.09.03 | 秋草[URL] | Edit

2. 多分伏見生まれ(前)

紀伊様
「譜略」の編者・中川忠英が、長崎奉行時代に、配下の近藤重蔵等に調査させ編んだ『清俗紀聞』という有名な書物が有りますが、『朝野旧聞襃藁』の編者で、「御実紀」編纂を建議した林述斎が、この書物に序文を寄せています。共に同時代の、寛政の改革に活躍した人物ですので、その歴史認識には、余り差は無かったと思われます。
「譜略」で「慶長十八年癸卯」という明らかに間違った記述がされた下向年が、「旧聞襃藁」でほぼ正確に記されたのは、偶然で有ったようです。その記載の「諸記月日所見なし。今御系図大全に従ふ」から、福田先生は、『御系図大全』にしか「慶長四年十二月」の記載は無い、と思われたようです。しかし調べてみると、『御系図大全』編者で水戸彰考館員・佐野郷成と同時期の同館総裁である、水戸黄門の格さんのモデル、安積覚兵衛(澹泊)が編んだ『烈祖成績』の慶長四年十二月の末尾に、「“是月”。世子夫人淺井氏自伏見赴江戸城。(家忠日記、關原合戰誌)」とある事が判りました。
『御系図大全』も『烈祖成績』からの引用と考えられますが、その典拠が「家忠日記追加」だと明記されています。しかし「家忠日記追加」では、慶長四年十二月の末尾に、「この年」江の下向があった、と有るのみです。この事から私は、格さんが、「年」と「月」を勘違いをして書き写したものが、さらに書き継がれた、と考えています。
この事から、一次資料の、書状発給までのタイムラグを考えると、必ずしも12月の到着とは言えないとも思っています。その近辺である事は間違いないのですが。(続く)

2011.09.03 | 武江[URL] | Edit

3. 多分伏見生まれ(後)

(続きです)
「旧聞襃藁」は、こうした史料を元にして、述斎の推論が加えられている事を踏まえる必要が有ります。子ゝ姫に関しては、そこまで考えが及ばなかったものではないでしょうか?細川家では、江戸証人に2歳・3歳の男子を小倉から出しており、当時の情勢では、福田先生のおっしゃる程、母子の健康を気遣っている余裕は無かったはずです。
以前コメントしたかも知れませんが、子ゝ姫は「譜略」でも伏見生れとされています。「譜略」批判から(自序・本文中に明記)編まれたものの、大枠は「譜略」を利用し、間違いと気付かなかった「慶長十八年癸卯」下向などは、そのまま継承している「祚胤伝」で、江戸生まれとされ、この説が、広まっているようですが、同書は、長丸も含め幸松以外全員を江の生んだ子供とすべく、長丸と勝姫の誕生年をいじったりしており(その理由も本文中に明記)、そこで福田先生が勝姫の誕生年を「祚胤伝」を基に、年次変更の理由を無視して考えた為に、妙な事にもなっている訳です。幕末編纂の『徳川幕府家譜』も、その記載内容から、秀忠以降は、ほとんどを「譜略」に依拠しているものと見受けられ(これも子ゝ姫江戸誕生説ですが)、それ程信頼の出来るものとは、言えません。
今のところは、長府毛利家文書という一次資料から判断するしかなく、そうすると、子ゝ姫の誕生地は伏見で、江の実子であった、とするのが現時点での有力説となるのではないでしょうか。

2011.09.03 | 武江[URL] | Edit

4. Re:子子の誕生の地

>秋草さん

大姥局さんに対する感想、預言めいた台詞の多い面々に対する辟易には本当に同感です。

江が江戸下向したのちも子々が伏見で育ったという説、面白く拝読しました。
江が千の輿入れで伏見に来た際も、長い間滞在していたようですので、江戸へ発ってもすぐに伏見に帰ってこられると思っていたかもしれませんね。
それは叶わず、すぐに前田家へ輿入れということになってしまいましたが…
充分可能性のある説だと思います。私も考えてみます。ありがとうございます。

2011.09.04 | 紀伊@赤石いとこ[URL] | Edit

5. Re:多分伏見生まれ

>武江さん

なるほど、江が慶長四年十二月下向とされた経緯がよく理解できました。もとをただしてゆくと、慶長四年のうちであることだけがより確実だという所ですね。

「長府毛利家文書」の解釈には迷いますが、やはりこの時点で江以外に秀忠の子がなかったと考えるのが自然でしょうか。
輝元がこの書状を残した後、実際に別腹に長丸が生まれてしまったのは皮肉ですね…
まだ他の子どもたちについては考察の余地が大いにありますが、子々については私も江の実子ではないと言いきることは出来ないんじゃないかなあと思います。
幕府方の史料ならともかく、子々の一代記で生年月日を改ざんするのはなんとなく不自然に思いますし…

2011.09.04 | 紀伊@赤石いとこ[URL] | Edit

6. 江戸からの輿入れの疑問

こんばんは。秋草です。

先日、図書館で『日本女性人名辞典』をみてみたところ、「珠姫」(「子子姫」の項目と二つあります)の項目に「伏見邸内に生まれる。」とありました。出典が『加賀藩史料』と『加能郷土辞りょう』です。『江の生涯』で紹介されていた史料がおそらく徳川家で編纂されたものなので、前田家での史料では違う記録になっているのでしょうか。

子子は慶長六年七月(または五月)に江戸から金沢へ輿入れしたと言われていますが、『三壺記』のほかにも子子が江戸から輿入れしたということが書かれている史料はあるのでしょうか。

子子が伏見で誕生した場合、おそらく一度も江戸へ下向しなかったと思います。子子が江戸へ下向するのならば、子子と乳母や従者だけで下向するのは、当時の社会情勢上危険なので考え難いため、慶長五年の家康が会津討伐のために江戸へ下向したときに同行する場合だげだと思います。
しかし、『江の生涯』の黒田長政の妻栄や家康の十一男鶴千代の例を考えると、この時まだ一歳の子子を伏見から江戸へ動かすのに、家康が六月十八日に伏見城を発ってから七月二日に江戸城に到着する間の約十五日では速すぎること、また家康が子子を江戸へ下向させるならば、せいぜい五歳になるまで待っただろうと思われること、この二つにより、この時の下向はなかったと思います。
後に前田家へ嫁ぐことになっている子子を命の危険にさらすことを、家康はしないはずです。

『三壺記』は一次史料ではないので、後の「子子は江戸生まれ」という史料の記録に合わせたのかもしれません。

2011.09.09 | 秋草[URL] | Edit

7. 子子の輿入れと初(江の次姉)との関連の可能性

こんばんは。秋草です。
前のコメントに引き続きコメントします。

『江の生涯』で福田千鶴氏は子子が江の実子ではない根拠の一つに、千の輿入れに付き添った江がまだ三歳しかならない子子を江戸から遠い金沢までの輿入れに付き添わなかったことをあげています。

しかし、子子が伏見から輿入れした場合、江が付き添う必要はなかったのでは・・・、と思います。理由は、関ヶ原合戦の後、若狭国には初と高次がいたからです。おそらく、子子が伏見から輿入れするとなると、伏見-若狭-越前-金沢の道順になるのでは、と思います。
若狭国にいた初が江の子である子子の輿入れの途中で子子の世話をした可能性もあるのではないでしょうか。後に初は江の四女を養女にもらうので、なきにしもあらずだと私は思います。

江も、輿入れの道筋の若狭国に姉がいるので安心したのでは、と思います。

2011.09.09 | 秋草[URL] | Edit

8. 無題

>秋草様
横から失礼します。
武江と申します。
伏見に残した可能性は、低いと思います。
明日の大河にあるかは分りませんが、関ヶ原の前哨戦で、伏見城は落城し、守将は枕を並べて討ち死にしています。
家康も、守将達も、その辺りは予見していた事ですので、多少の危険は有っても、母親の江と共に下向させる事を選択したはずです。福田先生も、千姫は、数え三歳でも江と一緒だったので、心強かったはず、と推測していますが、それは、子ゝ姫にも共通する事です。

2011.09.10 | 武江[URL] | Edit

9. 言い訳ではありませんが・・・

こんにちは。秋草です。

武江様、ご指摘ありがとうございます。
確かに伏見にいた可能性は低いです。
そのため私もずっと伏見にいたとは考えておらず、江が下向した後の子子の動向について仮説をたてていました。しかし、考えがうまくまとまっていなかったため、今まで子子の所在地を「伏見」と書いていたのです。

弁明するつもりは全くありませんが、、いつか紀伊様にもコメントでお伝えしたかった内容なので
ここで子子の動向についての仮説を書きたいと思います。まだうまくまとまっていませんがお許しください。なお、ここでは子子は江戸へ下向しなかったとして話をすすめます。

おそらく江が江戸へ下向することが決まった時、江は生後約六ヶ月の子子をそのまま伏見の徳川屋敷におくのではなく、二人の姉のどちらかに預けたのではないか、と思います。

私が思うに、おそらく茶々に預けた可能性が高いと思います。以前に紀伊様のブログ記事にも書かれていたように、江が姉を信頼して完子を託したことを考えると子子の場合もそうだと思います。また、もう一つの根拠として、慶長四年九月二十七日に家康が大阪城西の丸に入っていることもあります。大阪城本丸に姉の茶々、西の丸に子子の祖父である家康がいるので江は子子が大阪城にいることを望んだのではないか、と思います。
また深く考え過ぎた見方をすれば、江が江戸へ下ることと引き換えに、子子を大阪方に人質として渡したとも考えられます。(これは可能性が低いと思いますが・・・)

まだ少し続きがありますが、もう少し考えたいのでここまでにします。お許しください。
言い返すようになってしまいましたが、素人の想像なので何か間違いがあったらご指摘ください。

2011.09.10 | 秋草[URL] | Edit

10. 昨日のコメントの訂正

こんにちは。秋草です。
前回のコメントについて改めて考えてみたところやはりおかしいので訂正します。お許しください。

子子が人質になることはないですね。
人質として大阪城に入るならば、秀頼と婚約している千のほうが可能性が高いと思います。

武江様からご指摘があったように、千が江と共に江戸へ下向したとき、千は三歳ですね。
三歳の千が伏見-江戸の道のりに耐えられたのならば、子子が三歳で江戸-金沢の輿入れにも耐えられるかしら。しかし、生後六ヶ月の子子が江戸へ下向したとは考えにくいです。

江が千里眼の能力を持ってない限り、子子を初に預けた可能性もないとはいえませんが、決定打を見つけられていません。

2011.09.11 | 秋草[URL] | Edit

11. 大津城講話成立

並びに 紀伊姫さま お誕生日おめでとうございます。

今回の大河ドラマ、これだけは几帳面に日を合わせてきましたね。

それでは講演 行ってらっしゃいませ。

2011.09.15 | 渡邊markⅡ[URL] | Edit

12. 難江の生涯(前)

>秋草様
この件は、私が最後まで請け負うべきなんでしょうね(笑)。
まず私の立位置は、(あくまでも『江の生涯』に関して)大方に於いてアンチ福田説である事を、お断りしておきます。特に資史料の扱いに関し、自説に都合の良い物のみの使用、都合の良い解釈が見受けられる事に、疑問を感じています。
6ヶ月の赤子に長旅をさせる事を、私は不可能だとは思いませんが、慶長四年には、閏三月が有りますので、3月生まれなら、これを計算に入れる必要が有ります。江戸到着は、12月6日付の礼状発給に、余り日を置くはずも無い事から、早くても11月下旬でしょう。1ヶ月程かけ、諸大名の歓待を受けながら下向したとして、生れた日にちによりますが、出立日で考えても、8ヶ月から9ヶ月は経っています。
福田説は、千姫輿入れに同行した江の行動について、「危険な賭け」としながらも肯定しておきながら、他の話に於いて、母子の健康を理由に、幼児の移動を否定する、といった矛盾があります。
「七歳以下の男子はただでさえ生存率は低い」とも述べていますが、先に述べた細川家の江戸証人の例では、元和三年正月十三日生まれで、数えで3歳ですが、満で言えば2歳になったばかりの忠興5男天千代が、同五年正月に、元和七年には、やはり数え3歳の忠利嫡男・六(後の光尚)が、それぞれ九州小倉からはるばる江戸まで下向しています。六は、11月に忠利と共に小倉発駕、12月14日には江戸着ですので、それ程行程に気を遣ったとは思えません。さらに到着の翌々日には、秀忠と江に拝謁していますので、そのおかれた時と場合によって、福田説の条件は通用しない事は明らかです。(続きあり)

2011.09.17 | 武江[URL] | Edit

13. 難江の生涯(後)

(続きです)
忠利正室で六の母・千代姫(保寿院)は、元和九年に江戸に下向しますが、これも体調不良が心配される中、急かされてのものです。松平信康と五徳の女・登久姫が母である千代姫は、家康の曾孫になりますが、その人物でさえこのような行動を取らねばならなかったのは、家光への代替わりを前に、最上氏、本多正純、勝姫の夫・忠直卿といった大名への粛清が行われている最中だったからです。駿府へ移る際に、頼房を伏見城に置いて来たような話の方が、むしろ特別な話のように思います。
福田説では、加藤忠広を婚姻の際江戸に出て来させた例も挙げられていますが、この解釈もおかしくて、本当は前段に、江戸の(手伝い)普請が大掛かりなので、肥後守(忠広)は「幼少であるが」江戸に詰めているべきである、という意味合いでの「幼少」の使用である事に注意する必要が有ります。そして「緊迫した政治情勢下ではなかった」のではなくて、慶長十九年三月に入り、大坂冬の陣を目前にした非常に緊迫した情勢への変化が、この呼び出しの裏にある事を認識すべきでしょう。
これらの事から、福田先生の健康配慮説を当て嵌める事には、賛同できません。
江の下向は、太閤置目に違背するため重陽の面会でわざわざ申し入れ、茶々の許可を得たものであり、大いくさを考えた上での事です。江が理解していたかはともかく、家康は、そうした考えで動いています。小吉の子、即ち豊臣の子である完子と、家康の孫である徳川子ゝ姫とでは、自ずと立場に大きな差がある事も考慮しなければならないと思います。

2011.09.17 | 武江[URL] | Edit

14. 無題

こんにちは。秋草です。

武江様にここまで言われてしまっては、私の出る幕はもうありません。
別に私は福田氏の説にすべて同意しているわけではありません。珠姫、勝姫、家光、和子が江の実子ではないという説には疑問を感じていますが、福田氏の主張のすべてが嘘ではない、と思い福田氏の考えを参考にしたまでです。

子子は江戸から輿入れした、ということでしょうか。それもそれで疑問が残りますが・・・・・。

2011.09.18 | 秋草[URL] | Edit

15. ゴメンナサイ

>秋草様
何と申しますか・・・。けっこう自己嫌悪に陥ったりしているところです。
以前から抱いていた福田説への疑問点と、秋草さんへの反論を、一つにまとめた結果、強い論調になってしまったようで、ご不快の念を与えたようでしたらお許し下さい。
子ゝ姫の誕生地が記録によって混乱しているのも、江の下向時期の把握の問題に加え、この時期の、赤子の安全をどう考えるか、の編者の考えの反映かも知れませんね。初姫の誕生地は、逆に江戸城としている物が多かったりしますし。

2011.09.18 | 武江[URL] | Edit

16. Re: 子々について

折角コメントをいただいていたのに長い間御返事できなくて申し訳ありません。

子々の輿入れについては徳川から前田への輿入れということで、真剣に考えたことがありませんでした。
そのため秋草さん、武江さんほどには考えがまとまっていません。そして、史料についても存じ上げません。まずはその点について申し訳ありません。

慶長合戦を前にした情勢が情勢ですので、子々が赤子で江戸まで東下したと言われればそうなのかな、とも思います。逆に戦を前にして女子ども連れた江戸下向の難しさというのも良く分かります。

伏見や大坂にいたのではという考え方も、上方の邸には女性を含め徳川家の人々もいたようですし、ありえるのではとも思います。
大坂の陣に至るその後の展開から、豊臣家にいる茶々が徳川家の娘である子々を保護するという考えに至らなかったのですが、もちろん両者の関係は流動的なところが多分にあったはずですので、当時の豊臣と徳川の関係次第で初はもちろん、茶々が子々を保護するといったことがあっても不思議ではありません。ただ、関ヶ原の時点で大坂城を西軍に抑えられているので、その時子々が茶々の近くにいたら危ないかな、と思います。
完子は確かに秀忠の妻である江の子ではありますが、豊臣秀勝の子であり、その上既に茶々が養女としていたために徳川の関係者とは見なされていないと私も思います。
また、子々が幼少期とはいえ徳川以外の保護下で過ごしたことがあったならば、記録にその様子があまりにも見受けられないように思います。

そもそも、子々が前田家へ嫁ぐと決まったのはどの時点になるのでしょうか。基本的なことすら承知しておらず、お恥ずかしい限りです。

武江さんの細川家、加藤家の例は大変勉強になりました。ありがとうございます。

福田先生の江に関する説については、もちろん盲目的に信奉しているというわけではありません。ですが私の史料への取り組み方の点で、自省するところが大きいものであったと考えています。
真偽については、今後ますます史料が見つかり、またより研究がすすめられ、明らかになることを願うばかりです。

大したお返事もできず、またこの返信も想像の範疇に留まる記述が多く、申し訳ありません。
お二人のコメントを何度も拝読させていただいて、なるほど、と頷いている今日この頃です。

2011.09.18 | 紀伊@赤石いとこ[URL] | Edit

17. Re:大津城講話成立

>渡邊markⅡさん

わざわざありがとうございます。

大河ドラマは日にちを合わせたのでしょうか。
たまたまのような気がすごくいたします…

2011.09.18 | 紀伊@赤石いとこ[URL] | Edit

18. こちらこそ申し訳ありません。(子子の輿入れと茶々、上)

こんにちは。秋草です。

こもそもの始まりは私の勝手な想像です。
私の勝手な想像に紀伊様、武江様の御二方を巻き込んでしまいこちらこそ申し訳ありませんでした。


ただせめてもうひとつ言わせていただきますと子子が大阪から輿入れしていた場合、茶々も少し関連していたと思います。子子が嫁いだ前田家は秀吉と深い繋がりがある家柄です。そこに家康が手を伸ばす訳ですから茶々も相当警戒したと思います。小和田氏は『戦国三姉妹物語』でこの時「淀殿としてはどうすることもできなかった。」と書いてますが、確かに関ヶ原の後、一大名並に減石された豊臣家ですが、この時点では家康は「天下の大老」であり、秀頼の方がまだ上位にいますし、合戦から間もない時に、合戦で活躍した豊臣恩顧の大名家を刺激させるのは危険だと思います。
また子子の輿入れの数ヶ月前の三月二十七日に秀頼が権大納言になった翌日秀忠も権大納言になっています。これは秀頼が「天下の家老」家康の息子秀忠と並ぶことを意味します。それとダブルパンチで豊臣家を縁の深い前田家に徳川の子子が嫁ぐ訳ですから、茶々は相当ショックを受けることになります。
しかし、後に家康が征夷大将軍になったときに、千と秀頼との婚儀や豊国社臨時祭を行うなど入念にショック緩和策を実行していることから見て、この時点でなんのショック緩和策を実行していないのは家康の行動からして不自然だと思います。
せいぜい家康は慶長八年二月に征夷大将軍に就任するまで「秀頼様の御ため」に政務を実行していると思います。そのため私は子子の前田家への輿入れが「秀頼様の御ため」の婚儀だったのでは、と想像しました。
もし子子が大阪城にいた場合、茶々が子子の前田家に輿入れを反対していたならば、子子を大阪城から出さなければいいはずです。それぐらいの力は茶々にはあった気がします。しかしこれは何の証拠もないただの仮定ですが、子子が茶々もしくは秀頼の猶女となって輿入れしたとするのが私の想像です。

2011.09.19 | 秋草[URL] | Edit

19. 子子の輿入れと茶々、下

先ほどの続きです。

もし子子が大阪城にいて、茶々が前田家への輿入れに反対していた場合、茶々は子子を大阪城から出さなかったはずです。それぐらいの力は茶々には合ったと思います。
これはなんの証拠もない勝手な私の想像ですが、子子は茶々もしくは秀頼の猶女となって輿入れしたのではないか、と思います。
それならば記録に残るはずですが、完子の記録がほとんどないのと同様、子子が茶々のもとにそれ程長期間いなかった場合それほど記録には残らないでしょうし、大坂の陣で燃えてしまった可能性もあると思います。また、豊臣家が滅び、前田家がいつも徳川家に警戒される外様大名だったために、徳川家の仇敵である豊臣との関係を史料から抹殺したのではないかと想像します。

以前江は子子を初に預けた可能性もあると書きましたが、おそらく子子を誰かに預けた場合、家康の意向も汲まなければならなかったと思います。そう考えると、大津城で戦があると察知していた家康が子子を初に預けさせるのは思いと止めさせたと思います。

長々と語ってしまいました。
私は今年の大河ドラマをきっかけに江や戦国についての本を読み始めた者です。
なにか間違いがあったらもう無遠慮に仰ってください。
紀伊様、武江様、本当に申し訳ありませんでした。

2011.09.19 | 秋草[URL] | Edit

20. Re:子子の輿入れと茶々

>秋草さん

確かに、秀頼の権威についての研究の余地もまだまだありますし、豊臣家と徳川家の関係についても「豊臣対徳川」ではじめから語られていることについて、見直されるべきことが多くあることは私も同意見です。

もし子々が茶々や秀頼の猶子として輿入れしていたとしても、そのような記録は抹消されてしまいそうです(一応完子は数は少ないながら公家による一次史料に残りましたが…)。

ただ後年、利長が豊臣家に援助を求められた際、「私はともかく(のちの)利常は将軍家の聟なので…」ということを理由に断りを入れていることは無視できないと考えます。
ただ、最初に申し上げた通り、子々に関する史料をざっと見ただけですので、これ以上は何とも言えません。

この前後前田家は利長の金沢下向や芳春院の江戸下向など、子々の輿入れだけでなく徳川家関係でいろいろなことがあります。
とても複雑で難しい問題であることは確かだと思います。

2011.09.20 | 紀伊@赤石いとこ[URL] | Edit

    
プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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