今までもそうでしたが、今後は特に他の方の感想&ツッコミ記事を楽しみに拝読したいと思います。
○江の江戸下向と子々
『朝野旧聞襃藁』に慶長四年十二月江が江戸へ下向したという記載があるようです。
更に、『江の生涯』では「太田家文書」で、『江の生涯を歩く』では『長府毛利家文書』で江の江戸下向が慶長四年であったことが言及されています。
実際は劇中のようにこっそり(?)江戸に下ったわけではなく、秀吉の遺命と違えるため家康が茶々をはじめ公に伺いを立てての下向だったようです。家康が「他の女性に子が出来たら気の触りになるので」と言っているのが印象的な書状です。
前年の慶長三年に下向したのは、子々誕生の兼ね合いもあるのでしょうか。
『江の生涯』では母子関係の希薄さから子々は江の所生ではないとされていますが、個人的にはまだ何とも言えないです。
同書では名目上のこととされていますが、「象賢紀略」では「江戸御前様むすめ」と江の娘である旨の記述が、瑞龍院公親簡』では子々が加賀へ下向した際には江に進物があるとのこと…。同書に書かれているとおりに子々が慶長四年三月(『天徳夫人小伝』)、伏見で誕生ある説も否定してしまうには決定打が無いというのが、今のところの『長府毛利家書状』を踏まえた正直な感想です。
ちなみに、前述の『朝野~』では江(「若御台所」)が千を連れて江戸へ下向したという記載があるのみで、子々についての記載は無いようです。
子々と前田利常の子とされている光高については、子々の死後に光高の母(「筑州母儀」)が光高の縁談に反対したという記録があります(『細川家史料』)。この記録、解釈に間違いなければ光高は確かに子々の所生ではないことに…光高は嫡男なので、だいぶ驚きました。
その婚儀、本多忠刻と死別した千(「播磨之御姫様」/娘の勝かとも思ったのですが、勝は同年正月に池田光政へ輿入れしているんですよね…)との再婚話だったのですが(当然千も嫌がっています)、本当なら子々の実子ではなかったからかしら…と。
『江の生涯を歩く』でも言及されていましたが、姑であり義姉である玉泉院(織田永)宛の手紙で「禰々」と署名しているそうです(松尾美恵子氏の「『江戸の姫君』から『加賀の御前様』へ――珠姫の一生」)。本人は「ねね」という名前を通したのではないかという桐野氏のご指摘でしたので、私も現在のところ「ねね」(「子々」)を通すことにしています。
○大姥局
「おおばのつぼね」と読みますが、「姥」は乳母という意味で、まさに役割そのままの号をもつ女性です。本名は岡部かなといったそうです。
今度は嫁姑展開になりそうですが、姑である家康の妻築山殿や旭、秀忠の生母である愛(宝台院)が皆死去しているので、姑役割が大姥局に回ってきてしまったようです…気の毒な。彼女の縁者である静がのちに秀忠の妾となることからか…、大姥局が意図的に静を秀忠に添わせることになるのでしょうか。
この女性はどちらかというと、忠義者・賢女としてのエピソードのほうが残っているのですが…と思ったら、公式サイトにも載せられていますね。でもドラマでああいうキャラクターにしてしまったら台無しのような気がするのですが。
不遇な扱いをされる方はついかばいたくなる性分です…
当時の乳母は、大蔵卿局や春日局のように、養い君が成長したのちはその執事として側近くに仕え、養い君が権力の座についたときにはそれを支える存在として大いに活躍しました。大姥局もまたそのような存在だったのでしょう。
そのような当時の世相を考えると、貴人の乳母となる人を選ぶ基準には教養や利発さもとても重視されたことと思います。
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