鬼頭勝之氏著『裏から読む大坂の陣 善光寺・豊国社・お江与・甚目寺』を読んでいます。八月一日付で出版されたばかりのよう。いろいろ初見史料があって面白いです。
posted at 21:38:50
茶々の亡霊が家康他界の際に現れた話も。秀忠病の折には秀頼の祟りと噂されているし、既に秀頼や茶々を死に追い遣ったことに対する遠回しな非難が見えます。ちなみに茶々も夢で秀次の亡霊を見たという話があります。娘を嫁にという話があっただけに、知らぬ相手より罪悪感があったのでしょうね。
posted at 21:43:44
【裏から~③】高野山に、江の石搭が三つ存在することも紹介されています。奥の院・持明院・東南院。浅井家ゆかりの持明院にもあるんですね。知らなかったなあ。浅井家関係者で他の人のものはないのでしょうか。
posted at 21:47:27
【裏から~④】慶長三年、善光寺の如来を返す際に茶々姫の意志で行われたという「甲善本尊出現記」の記載も。その二年後、慶長五(1600)年には秀頼の名前で本堂を修築している縁の深いお寺です。(関連ブログ記事:『茶々姫と善光寺』 http://t.co/rIGHtQ5)
posted at 21:52:24
【裏から~⑤】個人的には、『諸家高名記』の引用、「秀頼卿と申せしは江州浅井備前守長政の息女、容色美麗なるを、太閤きこしめしよばれて、淀の御やかたへむかへ給ひ、淀殿と申て偕老御かたらい、鴛鴦の契り、浅からざりししるしに、若君誕生なされて、秀頼卿と申せし也」のくだりが好きです。
posted at 21:56:09
【裏から~⑥】『諸家高名記』は享保八年の成立とあるので、語り口の柔らかさにますます驚きです。最近、茶々の容色をとにかく否定する方がいらっしゃいますが、享保に既に「容色美麗」と語られていた様子。とはいえ、美人でもそうでなくとも私の思い入れに変わりはありませんが。
posted at 22:01:45
【裏から~⑦】当時、熱田誓願寺の扁額(「当時建立 浅井備前守息女 内大臣秀頼公御母儀 為二世安楽也」)撤去の命を熱田上人が拒否し、家康秀忠に認められたという経緯も。撤去の命令があったとのことなので、生前には寂光院や歓喜光寺以外にももっと多くの扁額があったのでしょう。
posted at 22:12:41
【裏から~⑧】茶々関係では、他に「城方忠臣之図」という秀頼や諸将の肖像の中に茶々(「淀君」)の肖像がありました。流布しているどの肖像とも似ていないものでした。まだまだざっと見ただけなので、改めてじっくり読んでみます。
posted at 22:19:25
先ほどつぶやいた茶々姫の肖像が見られるページを発見しました。http://t.co/Yxl4A9T
posted at 23:33:09
⑤、⑥で触れた『諸家高名記』の記述は個人的に好きでした。
コメントで『徳川幕府家譜』にも「三女トモ隠れ無き美女」とあると教えていただき、二次史料では早くから三女の容姿について触れられた(しかも徳川方史料)があったのだと改めて驚いています。
昨今、「伝」の像や養源院の像を持ち出して茶々姫は美女ではなかったという人が妙に増えているように思うのですが、三女とも標準よりはおきれいな姫だったと私も思います。
⑦で熱田誓願寺について触れたのですが、偶然k2さんのブログでも同テーマが扱われていました。
慶長五年に火災に遭ったのち、茶々と江が協力して誓願寺の再建に尽力したという記事(「右大臣秀頼母淀殿与崇源院大夫人協心再建」)がとても印象深かったので、こちらでもご紹介させてください。

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