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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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第三十一話「秀吉死す」【大河ドラマ感想】

 
茶々姫をたどる汐路にて
(醍醐寺三宝院唐門)

○秀頼

秀吉の秀頼に対する呼び方ですが、書状では「ひろい」→「おひろい」→「おひろいさま」→「秀よりさま」→「中なこんさま」と変化してゆきます。
実際はどう呼んでいたのでしょうね。

相変わらずドラマ内で江は呼び捨てですが。

秀頼と名乗りを改めたことについて、秀頼の動きに詳しい義演准后の日記では、それまで「御拾御所」と記されていたものが慶長元年十二月十七日の記事に「号 秀頼」と記されています。ちなみに、これより前の日付で秀吉から秀頼や茶々に出された音信には既に秀頼という名が登場します。

○秀頼と千の縁談

病床の秀吉の意向で、まだ幼い秀頼と江と秀忠の娘千の婚約が公に披露されました。
徳川家康・秀忠両名をに秀頼の後見を頼んでのことであったと言います。
『江の生涯』によると、この件は『浅野家文書』、フロイス書簡、『イエズス会日本報告書』などに見えるようです。

この時点における江の反応についての記録は見つかっていませんが、後年輿入れが行われた際、冷やかであった徳川方のなかで江が最もこの婚儀に積極的に関わっている様子からは、劇中のような冷やかな反応ではなかったのではないかと思われます。
(この件に関しては輿入れの回で改めてじっくり語りたいと思っています。)

まだ輿入れして三年ほど、秀頼との叔母甥としての記憶も鮮やかでしょうし、豊臣と徳川の結末を未だ知らない江にとっては、姉の子と自分の子の婚約はおおむね喜ばしいものであったのではないでしょうか。

江の豊臣家に対する私の考えについてはこちらの記事もご参照ください。
→*「植松三十里氏『自分がすべきことは何か… 大坂城と姉の悲劇になす術もない中で』」(2011/01/18)

○醍醐の花見

龍に対してこれまでになく注目している今回の大河ですが、注目していなくても扱われる好例の醍醐の花見の盃争いが採用されていませんでした。争いは無かったと考えている私としては喜ばしい気持ちですが、ドラマの方向性上の理由であえて無視されたのであれば少し複雑な気分です。

盃争いについて取り上げられているものは主に前田家の史料で、数もいくつかありますが、その大本となっているのが『陳善録』という村井重頼の見聞録という史料です。
当時の花見を記録した史料は他にいくつもあるのですが、盃争いについて書かれた史料はこの『陳善録』のみで、その点も信憑性が疑われている理由の一つです。
また、醍醐の花見は秀吉のごくプライベートな面々で行われ、前田家家臣である重頼は盃争いに参加していませんでした。醍醐の宿で利家の供をしていた人たちを接待しており、そこで耳にした話だということです。利家の供も秀吉の妻たちが一堂に会するその場にいたとは考えられず、その点も信憑性に疑問が残る話です。

なにより、この件で茶々と龍の仲がこじれた様子は全く見えず、秀吉の死後も秀頼の成長を案じて何度も大坂城に来訪し、度々書状を交していたらしい痕跡が見えることも、不自然と言えます。

趣旨の異なる何らかの出来事が又聞きのために尾ひれはひれがついて伝わったという可能性は充分考えられますが、秀頼のために結束すべき時期に、二人が不仲を噂されるようなことを不用意に行ったとはとても思えません。

醍醐の花見に対する私の考えについてはこちらの記事で詳しく取り上げております。よろしければご参照ください。
→*醍醐の花見(2011/04/08)

○初の所領と秀吉死後の龍

秀吉の死の直前、慶長三年八月八日に初個人に宛てて出された朱印状が残されています。また、『寛政重修諸家譜』にもこの所領についての記述があり、この所領宛がいがいかに注目すべき事柄であったかを表しているように思います。

その理由については、劇中で語られた龍の後を頼んでという意味も間違いなくあったようです。
この所領はそもそも天正十九年から慶長二年までの七年間龍の所領であったそうです。(「京極御系図」、「常高院様、御知行所書付」/大野正義「常高院の知行のゆくえ」)
個人的には、天正十九年に龍に所領が与えられたという事実もとても気になるのですが、七年間龍の生活を支えた知行を改めて初のものにするということに、龍の存在が関わっていないということは考えにくいと私も思います。

龍は秀吉の死後、京の西洞院にある屋敷で暮らすのですが、(大坂城を出て直接大津城に入ったと言われていますが、大津落城のあとすぐに西洞院の邸に入ったことを考えると、そもそも京に移住していた龍や母マリアたち京極家の女性が、戦を前に大津城に詰めたのではないかと考えています。)寧に秀吉の死後も所領があったことを考えると、改めて初に宛てがった所領のほかに龍にも所領があったのでしょう。もちろん茶々にも。

龍は伏見城松の丸に住んでいたことから「松の丸(殿)」と呼ばれていましたが、秀吉の死後も更に大坂落城後も長く「松の丸殿」と呼ば(記さ)れ続けます。ちなみに、寧は「(北)政所(様)」から出家を期に「高台院」とも記されることも年々多くなっていきました。茶々が最期まで出家していなかったと言われ、そのことに若干の疑問を抱いている私としては、「寿芳院」とは記されていない龍が出家したのはいつなのだろうか、と気になります。

○「淀の方」と醍醐寺三宝院

「淀殿」や「淀」という呼称を頑なに使われていた印象でしたので、醍醐寺の紹介で、茶々を「淀の方」と読んでいたのがとても新鮮でした。

ちらっとしか移っていませんでしたが、三宝院の庭園にある豊国社がちょっとだけ映っていましたね。
お寺の方に聞くところによると、前述の義演さん(三宝院の住職)が秀吉を悼んでひっそり建立したものだそうです。(江戸時代は「豊富稲荷大明神」というお稲荷さんにカモフラージュして乗り切ったそうです。)

境内では一般参拝者はカメラを構えることができませんし、あると分かっていても庭園の奥にあるためにあまり見えないので、一度じっくり拝見してみたい豊国社です。
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Comment

1. 無題

龍が秀吉から所領を贈られたの、面白いですね。茶々と淀城の関係もそうですが、日本には女性の領主や城主という概念がないので。

実質は代官や城代が差配していたのでしょうが、龍にちゃんと配当が届くシステムになっていたのが驚きです。

当時、東日本では上杉や伊達が旧領の一揆を焚き付けるなど、きな臭い動きがあり、未だ戦国の風止んでません。龍さん所領の徴収権を横取りするような者は考えられない、西日本の安定ぶりがとは大違いです。

江戸時代、例えば当家は肥後にも知行地(飛び地)を持ち、家来や下女はそこの出身者が少なからずいるのですが、実は、ほとんど行ったことないのではと思います。日本の封建社会はどこの国とも非常に違っていて、極度に抽象化された支配形態です。武家は配当だけ貰ってる株主のようなものですね

。災害や不作のリスク・ヘッジのためいくつかの名柄(知行地)を持ってますが、直接、農村経営にはタッチしないどころか、下手をすると見たこともない?状況。

突然、太平の御世が始まった訳ではありません。女性でも所領が保てるような安定に至る秀吉の事績、もう少し丁寧に見ていきたいと考えております。

2011.09.02 | 渡邊markⅡ[URL] | Edit

2. Re:無題

>渡邊markⅡさん

女領主ですが、平安末期以降、中世には結構いたみたいです。この頃には徐々に減ってきているようですが。

江にも台所地となっていたところが関東にあったようですし、茶々姫のところも明らかにならないものかと期待しているのですが…

2011.09.04 | 紀伊@赤石いとこ[URL] | Edit

    
プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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