
○京極家、忠高を巡って
ちょうど西島氏の論文で読んだ辺りでいろいろツッコミどころがありました。
京極高次の嫡男忠高を産んだのは「妾」(「山田家代々法号録」、「磯野家由緒書」)である山田崎(「山田家~」、「京極家御系図」「磯野家~」では「おな」)という女性で、朝鮮出兵の際高次に従軍し、忠高を身ごもったそうです。
彼女を召したのが「秀吉のすすめ」というのは濡れ衣もいいところです。
西島氏の論文に紹介されている書状を見る限り、山田崎を懐妊させたことによる茶々や大蔵卿局の心象はおおむね悪くなっています。秀吉の勧めであれば二人の心象がここまで表だって悪くなることはないのではないでしょうか。
ついでに母マリア(浅井長政の姉、茶々たちの伯母)の心象も悪いようで、初と縁のある人々は揃って高次が山田崎を懐妊させたことに対しよく思っていなかったらしいのです。
おまけに、初が「側室」に乗っ取られること嫌がっていましたが、それもありえなかったりします。
書状によると、懐妊が分かった時点から崎の輿入れ先が模索されています。それはそれで気の毒な話なのですが…。結局、秀頼に仕えた吉田治五衛門という人に嫁したようです(「山田家~」)。
秀頼の家臣ということで、茶々か大蔵卿局あたりが手を貸したのかもしれませんね。
後に記された「磯野家由緒書」によると初が妬心から忠高を害するのではという噂が流れたようですが、結果的に初は嫡母として忠高をしっかり後見したようです。このことから一部の系図史料の中には、忠高の母を初とするものもあります。
資料:西島太郎「京極忠高の出生――侍女於崎をめぐる高次・初・マリア・龍子――」(『松江歴史館研究紀要』第一号、2011年)
○慶長伏見地震と火災と千
東日本大震災に配慮されて火災になっていましたが、原作では慶長伏見地震でした。『清正記』によると文禄五年七月十二日~十三日、深夜の地震だったようです。
秀吉は当時寧・龍や上臈衆・女房衆と庭にいたそうです。深夜ということなので茶々は秀頼を連れて屋敷内にいたのでしょうか。
指月の地にあった伏見城は崩壊し、木幡山への移転を余儀なくされました。
いらぬお世話ですが、千が生まれたのは翌慶長二年五月十日(『言経卿記』)もしくは四月十一日(『幕府祚胤伝』)、慶長元年四月十一日(『徳川実紀』)、場所は伏見城とも伏見徳川屋敷とも(福田説では産褥を避けて家臣の屋敷とも)いわれ、伏見城ならば婚礼同様、婿入りの形をとったために豊臣家で産んだのではとも考えられています。
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