
秀吉の(いつもの)晩年の描写にもうお腹いっぱいですー。苦しい。
どうしても市が茶々を「淀」なんて呼ぶのがしっくりこないです。
秀吉も最後まで「お茶々」と呼んでいたのだから、市も「茶々」で通させたらいいのに。
○大坂城から伏見城への移徙
茶々が拾(秀頼)の伏見城移徙に難色を示したのは文禄三年四月の中頃のことです(『駒井日記』)。鶴松が二歳のときに上洛して亡くなったことから、拾の移徙を案じてのことであるのもその通りです。
劇中ではその後茶々と拾をおいて寧と龍が伏見城に移ったようですが、この二人も実際すぐには移っていないようです。
寧が伏見城に移ったのは同年八月十三日のことですし(『兼見卿記』)、龍は文禄五年七月十二日には伏見城松の丸に入ったようですが、文禄三年二月に大坂城西の丸に御殿を与えられたばかりで、すぐには伏見城に入っていないでしょう。結局、茶々姫と拾が伏見城に入ったのは文禄三年の十一月二十一日のようです。
○秀頼の呼称
「御子」と呼ばれていましたが、たぶん「若公(わかぎみ)」と呼ばれることが多かったんじゃないかな…思います。
○江と秀忠の結婚
『徳川実紀』では文禄四年九月十七日に婚礼が行われたそうです。場所は伏見城とも伏見徳川屋敷とも言われます。『実紀』では「大御台所を太閤養女として。公を御聟に定められしともいふ。」との注記もあり、江が豊臣と徳川を結ぶ鎹としての役割を大いに期待されていたことが分かります。
劇中ほど秀吉との仲がこじれていたら、このような役割は期待されなかったでしょうね。
当時の結婚観として、「豊臣の家を出て徳川の人間になる」というような考え方とは違っていたと思うので、私は江は秀吉に無理矢理に嫁がされたというよりも、本人も相当の覚悟をもって豊臣から徳川に嫁いだものと考えています。
次から次に嫁がされているようで、秀勝と秀忠の間には四年ほどブランクが。
縁談や準備もろもろを考えて、秀勝の三回忌以降に話が本格化したのではないでしょうか。
秀勝とは離縁したわけではなく死別だったので、相応の期間が必要だったのでしょう。
○江と秀頼
秀勝の死後、江がどこで過ごしていたかという問題にも関わるのですが、今作の江は秀勝屋敷に留まっていたのか、秀次に近しく、実の甥である拾の存在を若干倦厭している風でした。
完子の養育こともありますし、私はやはり茶々のもとに帰っていたのではないかと思うので、江にとって拾はもっと近しい存在であったのではないかと思います。
(江と完子が秀勝屋敷に留まっていたなら、完子は日秀に育てられることになったのではないかなあ…と思うのです。)
とりあえず、江はずっと「拾」と呼び捨てでしたが、実の甥でも実際はまさかそんなことはなかったと思います。
(時に秀吉まで呼び捨てでびっくりします)
○聚楽第
一切を取り壊したと出ていましたが、確か一部残っているはずです。文禄五年の五月九日に拾上洛の際、聚楽第が使用されています(『言経卿記』、『義演准后日記』)。
○瑞泉寺
まだ参拝したことがありません。是非一度伺いたいです。
Tracback
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)