この回以降、なんというか、私的な事情もあったのですが、私自身ぽっきりくじけてしまった感があります。
とはいえ、見届けると決めた以上は見届けます。
この回は確か東京出張中にリアルタイムで見ていたので、一か月前のメモを見ながらの感想です。
○秀勝を喪って
残念ながら、私は秀勝の死に悲しむ江にあまり共感できませんでした…
怒りや悲しみのポイントが理解できないといいますか。
それはそうと、江は普通の格好でしたが、この時代の喪服事情ってどうなっているのでしょうか。
泣いて秀勝の位牌の前にいるばかりで、喪に服している様子が今一つ分からなかったのですが。
初がわざわざ出向いて慰めに来てくれているというのに、江の態度はちょっと初がかわいそうになりました。哀しいのは分かるけれど…
○完子
「完」と書いて本名(幼名)「さだ」はありえないですねえ。
寧の「寧子」のように、幼名+「子」で仮の諱とする例もあるようですが、それでも公家読みをそのまま幼名にってのはどうでしょう。
「完子」は従三位あたりになったときに与えられた諱で、公家読みで「さだこ」と読むようです。とすると、もし幼名が「完」ならば「みつ」と読んだほうが通称(本名)っぽいでしょうか。
東福寺さんでは「寛子」という名前も残っているようですが、「ひろ」だったのかしら…と思いつつ、決定打はありませんでした。
もしくは、「さだ」とするとしても漢字は単純に「定」のほうがよかったかな。
○江と秀勝
一応、秀吉と寧夫妻にとってはドラマ上ではこの時点で江も秀勝も養子なのですが、何故か寧は江だけを呼び捨てて秀勝は「秀勝殿」と呼んでいました。
粗を探しているつもりは全くないのですが、むしろ秀勝のほうが夫秀吉にとって甥という近しい間柄なのになあ…と。
○今週の茶々姫
名護屋在陣中はまったく無視でしたねー…残念。
江が同行していないからということなのでしょうけれど、秀勝の死が茶々に伝わり、茶々から江に伝わるという過程を、その過程で起こるドラマを見てみたかったです。
一昔前の大河ドラマでは、主役がいない場面も丁寧に描かれていたような記憶があるのですが…
懐妊が分かり、大坂に帰ったところで傷心の江と対面。
史実では、茶々は文禄二年の正月以降に大坂へ帰ったらしいことが分かるのですが、詳しい時期は分かりません。
文禄元年の十二月時点で妊娠が発覚していないというのも若干不自然なので、既に名護屋で妊娠がはっきりしていて、安定期(二月~四月ごろでしょうか)に入ってから大坂へ戻ったのでしょうか。
茶々が大坂に戻ってから、寧が名護屋の秀吉に宛てて茶々の妊娠を知らせる遣いを走らせてたようですが、秀吉は既に知っていたんですね。「自分の子は鶴松だけ」というクールな文面で有名な寧への返信ですが、名護屋でひとしきり喜んだ後でいろいろ考えて冷静になっていると考えれば、ちょっと納得です。
話はドラマに戻ります。
さすが茶々姫というべきか、なのかさすが宮沢さんというべきか、茶々が江を慰めるシーンはとてもよかったです。こういう姉らしいシーンはとても好きです。
惜しいのは、鶴松を亡くしたことを例に挙げて江を慰めるのだったら、鶴松を亡くした茶々姫の悲しみももう少し丁寧に描いてほしかった…ということです。
○朝鮮出兵と秀吉
一番残念だったのが、この辺りの秀吉の描き方に全く新しいところが見られなかったことでした。
折角以前信長時代からの長期の展望だったという解釈が示されたにもかかわらず、秀吉の独断専行で朝鮮出兵が推し進められたようにしか見えなかったのは本当に残念でした。
あちらへの配慮があるのかもしれませんが、この辺りの事情もいろいろな面があったわけですから、描き方もいろいろあっていいと思います。いろいろあってほしいです。
秀頼誕生で戻ってきた秀吉も、もうすっかり見飽きたプロトタイプな秀吉でした。
○おひろい
秀吉は秀頼が生まれて六日後に寧へ宛てて、赤子の名を「ひろい」とすること、誰も「おひろい」と呼んではいけないとしています(「高台寺文書」)。しかし同年十月二十五日付茶々宛音信では既に自ら「おひろい」と記しています(「大橋文書」)。
劇中では「ひろい」と呼ばれていましたね。秀頼と秀次の娘の縁談が出て以降なので、十月以降なのは確かですが、微妙な時期です。
○秀頼と乳母
秀頼誕生後に秀吉から茶々へ宛てた手紙には、茶々の母乳の出を案じる手紙(「大橋文書」、「森文書」)があります。秀頼が茶々自身の母乳を与えられていたのは事実です。
かといって、乳母がいなかったわけでは決してありません。
のちに秀頼に殉じることになる右京大夫局、大坂の陣で有名な木村重成の母とされる宮内卿局を始め、正栄尼、佐々内記母、高橋古也など、秀頼の乳母として名が残る女性は幾人もいます。
なかには前田利家の妻松のように乳母と言っても養育係や名目上の乳母であった女性もいたことでしょうけれども、後の働きを見ると、少なくとも右京大夫局は早くに秀頼の乳母として近侍していたと思われます。秀頼も茶々の母乳で足りないときなどは乳母の母乳を与えられたことでしょう。
そもそも、秀吉が鶴松の徹を踏まないためにも、秀頼のために盤石な養育体制を整えないはずがありません。
ドラマではこの件について茶々の独断で決めたような描かれ方でしたが、実際はどちらかというと秀吉の意志だったのではないかと思います。浅井家の総領娘として生まれた茶々にとって、乳母が我が子に乳をやるというのが常識でありステータスだと考えていたのではないでしょうか。
茶々自身、初が年子(もしくは二つ下)で生まれていますし、大蔵卿局の母乳で育ったのでしょう。でも、市の母乳を与えられたこともあったかもしれません。
生母から完全に離されて育った子はともかく、傍で育った子女が全く乳母の母乳だけで育つということは私たちが思っているよりも少なかったのではないかと考えています。
…さすがにドラマのように、いくら姉妹や侍女とはいえ人前で肌をあらわにしなかったでしょうけれども…
そしてまだいとけない秀頼と茶々姫の姿に、江が不吉な予感を抱いたことに個人的にはがっかりでした。秀頼が誕生した時には、打算のない喜びに包まれていたと思いたいです…
○秀頼と秀次の娘
文禄二年十月一日、秀吉は前田利家夫妻を通じて秀頼と秀次の娘の縁談を秀次に持ちかけます。秀吉の申し出に秀次は最初不快を示したようですが、夫妻の仲立ちでこれを承諾しました。
その直後、秀次は茶々宛に手紙を出し、この縁談について何か書き送ったようです。その返信が残っており(「福田寺文書」)、秀次の娘との縁談を寿ぎ、息災を喜ぶ内容が記されています。
それから秀次事件の直前まで進物や書状のやりとりがあったようです。まだ幼い秀頼や秀次の娘を挟んで、来るべき慶事に向けて交流を深めていたことが偲ばれます。
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