『近江浅井氏 小谷城と城下をゆく』によると、鶴松の病気平癒祈願にで五十石の寄進を受ける、茶々の疱瘡治癒の際には立願米二百石の寄進を受けるなど、茶々との縁が深い神社。
亮政が小谷築城の際現在地に勧請したとされ、また浅井三代、豊臣家、徳川家の信仰も厚かったと由緒書に伝わります。
当時は「田川大明神」と称する神社だったそうです。
鹿島神社文書に鶴松の祈祷、茶々の祈祷双方記録が残っているようです(『東浅井郡誌』より)。
(一)増田長盛等連署書状今度若公様(鶴松)於御本復者、最前之御立願米可令社納候、其上重而五拾石可有御奉加赴被仰出候 被得其意、可被抽懇祈候。於神前耳卯茂不可有油断事専用候。恐々謹言。
八月三日 増田右衛門尉
(天正十九年) 長 盛(花押)
小出播磨守
秀 政(花押)
伊藤加賀守
秀 盛(花押)
寺澤越中守
弘 政(花押)
石川伊賀守
光 重(花押)
民部卿法印
玄 以(花押)
鹿島神主
(二)木下吉隆書状鶴松が亡くなって四カ月が経過していますが、「大坂御ふくろ様」からこの頃茶々が大坂にいて、鶴松の死後も亡き若公の生母として遇されている様子が分かります。
大坂御ふくろ様(茶々)ほうそうを被成御煩候付而、無異議早速被成御本復候様にと被成御立願候條、被得其意、於神前御祈祷候て、御札可有進上候。八木弐百石分被仰出候。目出可寺納之旨、其時分重而可令申候。恐々謹言。
猶以御立願相叶候者、右八木を以、可有御造営之由候。
十二月七日 木下半介
(天正十九年) 吉 隆(花押)
鹿島
社人
鶴松の死の数カ月後に茶々は疱瘡を患いますが、やはりそれだけ気落ちがひどかったのでしょうか。
痛々しく思います。
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