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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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北野に伝わる[浅井家侍女]盛秀の伝説と墓

 

茶々姫をたどる汐路にて

長浜に来ています。


以前取り上げた[浅井家侍女の墓]の展示が行われている五先賢の館に行ってきました。

小谷城麓の小さな墓石 ~「北ノ方」盛秀の墓(2010/05/25)


展示では、北野地区の言い伝えを詳しく紹介されていました。


(墓石の刻字)
「 渓 盛秀禅定尼 元亀四癸酉年 四月四日」


北野では、この盛秀が小谷落城の際姉妹を逃がした人物として語り継がれているそうです。


小谷を脱出し、池奥というところの民家で姉妹を古い野良着に着替えさせて北野へ降りた道は、今でも「こじき坂」と呼ばれているそうです。

姉妹はその後北野から田川堤を下って平塚の実宰院へ逃れ、匿われました。そのとき三人の侍女が姉妹の供をし、その中の一人が盛秀であったということです。


盛秀も、実宰院に住むよう言われましたが、姉妹の足手まといになってはと実宰院を離れ北野に戻り、尼となり暮らしました。盛秀の住まいは小谷城を頭上にのぞむ地にあり、毎日姉妹の無事を念じて暮らしたといわれています。

しかし盛秀はその後突然亡くなり、その死を悼んだ北野の人々によって懇ろに葬られたそうです。



この伝承は実宰院の寺伝とも一致する興味深い内容でした。

姉妹を逃し実宰院に届けたという伝承については、昭和五十五年の一月九日付(盛秀の墓が発見されたとき)の新聞記事も展示されており、古いものであることが偲ばれます。


先日書いた記事の通り、『淡海国木間攫』にはこの墓石について「浅井長政北ノ方ノ墓ナリト」と記されているそうです。

ただ、地元では上記の伝承どおり侍女として今日に伝わっています。

姉妹を連れて逃げたという事跡が彼女を「侍女」として語り継がせているのかもしれない…、と私は思いました。


盛秀の没日である元亀四年四月四日は、小谷落城の同年九月一日を五ヶ月ほど遡りますが、ここから実は早い時期に姉妹は小谷を逃がされ実宰院に入っていたのではないかとのことです。


姉妹の反応についても伝承で触れられており、盛秀が北野へ去る時に、離れるのを嫌がって「一緒に暮らそう」と懇願したと伝わっています。


三人の侍女のうち、一人は大蔵卿局でしょうか。饗庭局あたりもいたかもしれません。


展示では、『絵本太閤記』の該当部分の挿絵が展示されていました。

長政と別れる三姉妹が描かれているのですが、一人の侍女が赤子の江を抱いています。

(『絵本太閤記』の成立時期は1800年前後だそうです)

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プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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