名付けは次回ですね。納得のいかない名前ですが、まあその話は次回に…
秀勝が斬られたときはどうなるかと思いましたが、傷が原因で病になったような解釈で良いのでしょうか。
しかし、北庄、小牧・長久手に引き続きまたしても江の戦嫌いが足を引っ張っていますね…
「戦嫌い」を描くのはいいのですが、どうしても娘のわがままに見えて仕方がないのは私だけ…?
だから「戦を起こす人」である秀吉がどうしても悪役になるし、このままだと関ヶ原も石田三成が「戦を起こす人」になってしまうんだろうなあ…
愚痴はともかく。今回は主にスルーされまくっている茶々姫の名護屋行き関連について。
○茶々姫の名護屋行き
ドラマ内では、その理由を「次の子がほしいから」としか語られませんでした。実際に拾(秀頼)が出来た時の秀吉の反応は、「自分の子は鶴松だけなので、次の子はお茶々だけの子に」というものでした。がっつり子作りのために茶々を名護屋に連れていくぞ!…というほどのものでもなかったようです。
ではなぜ茶々が連れて行かれたのでしょうか。
その理由は、実はこの時同じく同行していた(厳密に言うと龍のみ別に名護屋へ下ったのですが…)京極龍についての記載で伺うことができます。茶々が拾を懐妊し、大坂へ帰った後、秀吉の奥向きを差配したのは龍でした。龍は、この功績を買われて、大坂城西の丸に御殿をもらいます。
奥向きの差配―「いかほどの御こころをつくさせられ。しかしながら、御しあはせよく、いづかたも御心のままにおほせつけられ、御しあわせよき御かたさまなり。」―それは決して、奥で秀吉の機嫌を取るだけの役目ではなかったということです。
茶々は、小田原従軍でこの役割を立派に果たしたがために鶴松の母とは別に、妻としての地位を内外に認められるようになりました。そもそも茶々が名護屋に従軍した第一の理由も、やはりここにあると私は考えます。
もう一つは験担ぎ。福田千鶴先生の『淀殿』で紹介されているとおり、茶々の動向は当時「吉例」と考えられていました。「首尾よく勝利をおさめた小田原合戦でも茶々がいた。此度の唐入りも茶々がいるから勝利するに違いない」ということです。
実際そうであったというよりも、そのように秀吉が触れ回って兵を鼓舞したのでしょう。天武天皇が黒雲に吉兆を占って兵たちを鼓舞した逸話のようです。控えめに考えても、吉例のシンボルにする程度には茶々に人を引き付けるものが備わっていたと考えてもよいのではないでしょうか。
しかし、幸か不幸か、懐妊して茶々は途中で名護屋から大坂に帰ってしまいます。結局、唐入りが首尾よく運んだとはいえない結果になってしまいました。皮肉なことに、秀吉が作りだしたであろう「吉例」は実際のものとなり、逆に働いてしまったようにも思えます。
○茶々と姫路城・厳島神社
茶々は、名護屋の道中、秀吉に伴われて様々なところに行っています。
後に姪であり嫁である千が暮らす(秀吉も一時居城とした)姫路城では木下家定邸に泊り、厳島神社にも参詣したようです。自らの名で寂光院を再興した茶々姫にとって、思い入れ深い平家に縁深い厳島神社はどう感じられたのでしょうか。
各地で何日か滞在しながら二カ月ほどかけてゆっくりと名護屋へ進みました。
○大政所と秀頼
大政所重篤の報を聞き付け、秀吉は天正二十年七月二十二日に名護屋を発ち大坂に帰りましたが、同日の大政所の最期には間に合いませんでした。
憔悴しきっていたであろう秀吉を、鶴松の死を共に経験した茶々はどんなふうに名護屋で出迎え、慰めたのでしょうか。茶々が拾を懐妊したのは、秀吉が大政所の葬儀を終えて十月十日ごろに名護屋に帰ってきてからです。大晦日、秀吉は茶々と共に名護屋城で毛利輝元からの歳暮を受け取りました。拾の懐妊は、この間どれだけ茶々が心を尽くして秀吉を励まし支えていたかを偲ばされます。
そういえば、伏見宝福寺には秀吉と茶々姫が参拝して秀頼を授かったという子授け石がありますが、名護屋付近にもそのような縁の場所があったようななかったような…

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