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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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第二十五話「愛の嵐」【大河ドラマ感想】

 
ハードディスクの容量限界に気がつかずうっかり見逃すところでしたが、なんとか再放送前に気が付き見ることができました。録画をしているといつでも見ることができると気が緩んでしまってダメですね。反省。

○「なんでも思い通りになると思うのか!傲慢なおなごじゃ!」

秀次が江に対して言った台詞。ちょっと共感してしまいました…(苦笑)

○鶴松臨終

利休の死に押されてあっさり済まされてしまいました…(二人の死には半年ほど間があるはずなのですが…)
茶々姫をたどる汐路にて

七月九日に秀吉の養女小姫(織田信雄娘、徳川秀忠許嫁)が病死。うつる病だったのか、基本的に聚楽第に居を置いていた鶴松が同月十七日に大坂城へ向けて聚楽第を発しました。しかし既にこの頃に既に鶴松は体調を崩していたようで、大坂までたどり着けず、道中の淀城に入ります。同じ月の末には、寧が腹痛で寝込み、加持祈祷が行われ、医者も手配されています。この一連の病が同じものだったのでは…と仰るのが福田先生の説です。寧は病中にも関わらず、翌八月三日には側近の孝蔵主を鶴松のため淀城に遣わされました。

八月に入り、秀吉は北野社・春日社・興福寺へ鶴松の病平癒祈祷を行わせます。この春日社には茶々の名が刻まれた石垣があるとのことで、この時茶々も鶴松のために寄進をしたものと思われます。

しかし、周囲の人々の尽力虚しく、八月五日、鶴松は目的地であった大坂城に入ることなく、生まれた淀城で短い命を終えました。秀吉は鶴松の最期を看取った後、淀城で髻を落とし、東福寺常楽院へ移り二夜三日籠ります。このとき、諸大名も秀吉に習って髻を落としました。その後、秀吉は清水寺に移り家督を秀次に譲ることを表明します。その後、有馬へ湯治に出かけてしまいます。
加藤清正が秀吉の嘆きを慮って、鶴松逝去直後の見舞い控え、翌九月になってようやく大坂城に秀吉を見舞に訪れたというエピソードが秀吉の憔悴ぶりを伝えています。

鶴松の葬儀は妙心寺で行われ(傅役石川光重の縁との説を教えていただきました)、初七日にはまた妙心寺で経が読まれた際、鶴松の戒名が「祥雲院玉巖惠麟台霊」と定められ、南禅寺・天龍寺・建仁寺・東福寺に送られ、そちらでも懇ろに経が読まれたといいます。

その後も秀吉・茶々夫妻は鶴松を失った悲しみを忘れることなく、追善供養を続けました。
→*鶴松の追善供養(2010/12/18)

秀吉の嘆きは様々に筆を尽くされていますが、一方の生母である茶々の悲しみはほとんど見えません。同月十七日、北野社に「御正体」を懸けるようにと沙汰したことが残るのみです。史料にはほとんど描かれることのなかった茶々の悲しみ――こんなところに、女性の記録の少なさを痛感します。

「鶴松が生きていたら。」
鶴松はこんなふうに語られることの少ない人物です。
でも、鶴松が生きていたら。秀頼は一人で重い荷を背負うことはなかったでしょう。
茶々の背負う責任の大きさも長さも、違っていたかもしれません。
鶴松こそ、もっと惜しまれてしかるべき存在だと私は思います。

○朝鮮出兵

信長時代からの計画という視点を打ち出しておきながら、結局鶴松を失ったことがきっかけになったように描かれてしまっていました。残念です。そして、誰もが秀吉の計画を馬鹿馬鹿しいと蔑み、秀吉だけが暗君の評価になっていく…。私は特に秀吉贔屓というわけではないつもりなのですが、やはりこれだけ扱いに不公平が生じると、やりきれない思いがします。
石田三成についても同じく。
今回は結果的に徳川家に反するものはこうなってゆく運命なのでしょうか。その後に茶々姫も続いてゆくのでしょうか…
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Comment

1. 無題

鶴松は 亡き父のかつてのボスの名前でありますので、いささかのご縁を感じています。
(佐藤鶴松というのですが、)私の就職の時の保証人でもありますのでね。
先日、大坂の陣で、秀頼出陣の可能性について論じた折、一方で鶴松が生きていたら幾つになっていたか、指折り数えている自分に気がつきました。茶々姫の深い思いでもあったでしょう。

レベルは全然違いますが、私の妹の一人も12歳で亡くなり、父は定年退職すると、即、母を連れて高野山に供養に出かけました。何十年立とうと、亡き子を思う親の気持ちは途切れることはありません。

吉田健一氏、秀吉の生涯は朝鮮出兵をするためにこそあった、とどこかで言ってるそうです。どこに書いてあるのか、氏の著作は相当読んでいるのですが。或いは対談や座談での発言かもしれません。あれだけの文明観を持った人の言なので、引き続き興味を抱いております。

2011.07.13 | 渡邊markⅡ[URL] | Edit

2. Re:無題

>渡邊markⅡさん

お返事が遅くなり申し訳ありません。
茶々姫の生涯は今の感覚で考えても、波乱万丈な人生であったのだと私も思います。
なにより子を亡くした悲しみは、きっと最期まで忘れることはなかったのだろうと推察します。

吉田健一氏の文章、私も気になります。
時には違った目線で唐入りを見てみたいものです…

2011.07.21 | 紀伊@赤石いとこ[URL] | Edit

    
プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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