FC2ブログ

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

玉造稲荷神社に秀頼像建立へ

折角人物像の見直しに迫る内容を含んだ記事なのに、タイトルで台無しです。
当時、当前の体制であった、幼い後継ぎが生母の後見をうけるということはマザコンと同義なのでしょうか?他ならぬ現在の価値観でおしはかられた結果の烙印だと思います。

そして当然のように関連ブログ記事に見える秀頼不義の子説…否定するのも疲れます。

でも、銅像建立には期待。制作中を見たところ、「精悍」とはいえふくよかな感じっぽいですね。
そもそも、体型について実際見た人が記録に書きとめていないけれど、どこまで本当なのでしょう。


 関白家の家督を継ぎ、大坂夏の陣を経て自害した豊臣秀頼の復権を図ろうと、大阪城の鎮守神、玉造稲荷(いなり)神社(大阪市中央区)境内に秀頼の銅像が建立されることになり、10月の完成に向けて制作が進められている。一般にはひ弱でマザコンのイメージが強い秀頼だが、専門家の間では「実際は帝王学を学び、人望も厚かった」として再評価を求める声も。2年後に秀頼生誕420年、3年後には大坂冬の陣400年という節目を控える中、関係者は「大阪再興のきっかけにもなれば」と期待している。

 玉造稲荷神社は大阪城の三の丸だった場所にあり、秀頼と母の淀殿も参拝に訪れた。境内には、秀頼を出産した際の淀殿の胞衣塚(えなづか)や秀頼から寄進された鳥居が今も残っている。

 今年は大阪城天守閣復興80周年にも当たることから、神社では、ゆかりの秀頼を顕彰し、太閤時代の大阪のにぎわいを取り戻そうと、銅像の建立を計画。文化勲章受章者の彫刻家、中村晋也さん(84)に制作を依頼したという。

 像は、台座を含めて高さ5・3メートル。衣冠束帯姿の精悍(せいかん)な姿を蘇らせる。中村さんは、鹿児島県のアトリエで制作を進めており、「大阪のみなさんに、親しんでもらえるような秀頼像を作りたい」と意気込む。

 秀頼は、天下統一を果たして関白の位まで上り詰めた父、秀吉に比べて存在感が薄く、淀殿の強い庇護(ひご)があったことからマザコンとみられがちだが、大阪城天守閣の北川央(ひろし)・研究主幹は「秀頼のイメージは、あくまで徳川史観に基づいたものだ」と異論を唱える。

 北川さんによると、実際の秀頼は、身長180センチ以上の堂々とした体格の持ち主で、幼い頃から帝王学を学び、頭脳明晰(めいせき)で人望もあった。史料「小須賀氏聞書(ききがき)」などには、京都・二条城で秀頼と対面した宿敵、徳川家康も、そうした面を認めていたことを示す記述が残っているという。

 「秀吉の像は各地にあるが、秀頼の場合、人生のほとんどを過ごした大阪がふさわしい。豊臣時代を見直す象徴になってほしい」と北川さん。玉造稲荷神社の鈴木一男宮司(63)は「淀殿の陰に隠れてひ弱という悪いイメージを払拭したい。銅像が、再び大阪の街を盛り上げるきっかけになれば」と話している。
スポンサーサイト



| ∟書籍・論文・記事 | 13:03 | comments:16 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT

1. なんとも……

しかしひどいタイトルだ。
秀頼公がマザコンだなどと、どこにそんな史料があるというのでしょうか。
泣けてきます……

| こんすこん | 2011/06/23 18:16 | URI | ≫ EDIT

2. 渡邊家・追加

主殿の母・宮内少輔の娘(ひさ)は、幼少の時 政所様にご奉公していた旨の先祖書がありました。
すなわち渡邊家は 茶々姫のみならず、(正栄尼の娘が)北政所(寧)にも仕えていたのですな。
紀伊さんのお説の通り、(少なくともこの時期)高台院と茶々姫の間が 親密かつ友好的であったことの傍証の一つにはなると思います。また、明智の血筋は、ここでも、問題になってないようです。

「女の戦い」は、どうやらテレビドラマの世界だけの話のようですね。

ひさは その後、野々口光忠に嫁入りし、離別。男子(主殿)は幼少につき母方が引き取り養育したとあります。実家に戻ろうにも、渡邊家はご承知の状況で、ばりばりの大坂方。苦労したと思います。主殿親忠が成人し、豊後臼杵・稲葉家家老となって、ようやく渡邊姓を名乗るには、このような背景事情があります。
この親忠が(臼杵)渡邊家の祖。
母方に育てられ、就職の世話までしてもらったのですから、わが中興の祖も、当然マザコン?

ご勘弁を願いたいものです。

| 渡邊忠明 | 2011/06/24 10:40 | URI | ≫ EDIT

3. Re:なんとも……

>こんすこんさん

喜ばしいニュースのはずが、愚痴だらけになってしまいました…

本当に、今の価値観で判断するのは勘弁していただきたいです。気をつけていても今の価値観にとらわれていることがあるというのに、ここまであからさまだと閉口します。

確かに秀吉死後の秀頼の人となりが分かる史料は少ないですが(それを言うなら茶々姫だってなのですが…)、大坂の陣あたりの秀頼の様子を見ていると誇り高い人だと私は思います。

いくらこんな片隅で叫んでいても、世の中には届かないものなのですね…悲しいです。

| 紀伊@赤石いとこ | 2011/06/24 16:17 | URI | ≫ EDIT

4. Re:渡邊家・追加

>渡邊忠明さん

ひささんが「政所」に仕えたというお話ありがとうございます。時々史料によっては「政所」と書いてあっても茶々姫を指すことがあったりするのですが、ご先祖書ということで、「政所」は寧と考えても大丈夫そうですね。

正栄尼が茶々にいつごろ仕え始めたのか判然としませんが、母が茶々に仕え、娘が寧に仕え、息子が秀頼に仕えたということは大変興味深いです。
親忠さんも母方で育てられたとのこと、正栄尼に抱かれて茶々や秀頼に会ったこともあったかもしれないなあと想像しました。

それにしても、仰る通り、「マザコン」も「女の戦い」も「秀頼が秀吉の実子ではない」という説も、もううんざりですね。

| 紀伊@赤石いとこ | 2011/06/24 17:26 | URI | ≫ EDIT

5. マザコン説について

はじめまして。gama-gaeruと申します。紀伊さんの「淀殿は言われているような淫乱でも傲慢でもなかった」との論証はとても見ごたえがあります。

>秀頼公がマザコンだなどと、どこにそんな史料があるというのでしょうか。

たぶん原因のひとつは細川忠興の評価と思います。
忠興が大阪の陣の少し前、島津氏の家臣川上久国に「徳川と豊臣どちらが勝つか」と聞かれたとき、「秀頼は乳飲み子なり。お袋専制なり」と答えたそうです。(『川上久国雑記』)

| gama-gaeru | 2011/06/26 21:14 | URI | ≫ EDIT

6. Re:マザコン説について

>gama-gaeruさん

はじめまして。コメントありがとうございます。

『川上久国雑記』という史料は初めて拝見しました。貴重な情報を教えていただき、ありがとうございます。

初見ため史料の性格などが今一つよくわからないのですが、川上久国という方が後年まとめた編纂史料…といいますか、回想録?ということでよろしいのでしょうか。

忠興はそもそも豊臣家に対し早くから批判的で見限りをつけていたという印象が強く、果たして成人後の秀頼や茶々についてどの程度人柄を把握していたか疑問に思う部分もありますが、実際にそのような言葉を口にしたのならば、豊臣に批判的な方々がそのような認識を持っていたということは事実なのでしょう。

ただ、そのような史料もある一方で、身近に秀頼と接した人や、家康をはじめ実際に対面した人の秀頼に対する評価について、通説とは違った一面を思わせるものが長い江戸時代を経て今に伝わってきているという所に私は注目しています。

…という私の思いはともかくとして、とにかく貴重な情報を教えていただいたことに重ねて感謝申し上げます。私ではきっと辿りつけなかった史料でした。
引用された疑問を呈された方も、きっとご覧になってくださっていると思います。

| 紀伊@赤石いとこ | 2011/06/26 21:48 | URI | ≫ EDIT

7. マザコン説について

出典は分からなかったのですが、津々堂さんのサイトに「子細は秀頼は乳飲み子にして、お袋専制なればなり」について記載されています。

| 名無し | 2011/06/26 23:23 | URI | ≫ EDIT

8. Re:マザコン説について

>gama-gaeruさん
>名無しさん

コメントありがとうございます。
教えていただいたサイトさん、及び史料編纂所のデータベースで『川上久国雑記』を拝見してきました。
お恥ずかしながら知識不足で不明な点も多々あるのですが、「乳呑子」=マザコンで、「専制」=ヒステリックとされている解釈に疑問です。

乳呑児、というのは明らかに秀頼を侮蔑している言葉ですが、「戦の経験もない若造では相手にならない」という意味ではないでしょうか。
そして、茶々姫は秀吉死後から秀頼の後見を務めてきたわけですから、秀頼の成長後も、「大殿」よろしくある程度権力が付いて回っていたのは当然です。彼女が指揮をとっていたということが直接ヒステリックと結び付けられているのが私は理解できませんでした。

「秀頼はまだ若造で相手にならない、その後見である母茶々が万時指図しているようだが女ではこれもまた相手になるまい。」といった侮蔑のように解釈しました。

どちらにしろ、当時のこのような状況を、現代のマザコンという言葉と同じものだとしてしまうあたりに問題を感じます。

| 紀伊@赤石いとこ | 2011/06/26 23:53 | URI | ≫ EDIT

9. 表題変えてます

紀伊様
最初の産経ウェブ版で私が拾った段階の表題は、『豊臣秀頼、実際は180センチ以上 精悍な武将だった』だけだったのですが・・・。
夏の陣での松平忠直(当時21歳)は、五月六日、八尾、若江での激戦に軍令を守って動かず、家康の叱責を受けます。『津山家譜』によると、家老本多富正等は、家康から「“大将ハ乳臭”、汝等ハ腰ヌケ共計リ」と叱責された、とされます。『越藩史略』によれば、これを伝え聞いた忠直卿は、大坂方へ寝返るか(「吾、今豊臣に与して憤を発せんか」云々)、高野山に入るか、とまで言った事になっています。
結局七日の総攻撃では、抜け駆けをして真田勢を破る殊勲をあげますが、ほとんどヤケクソの突入による勝利だったようです。
これらの話も、どこまでが史実なのかは判りませんが、相手をけなす際、「乳呑子」、「乳臭」を使う事は、今も昔も変わり無く、それを以ってマザコンをイメージしてはいけませんよね。メディアによるイメージの伝播の一例を見た気がします。

| 武江 | 2011/06/28 00:15 | URI | ≫ EDIT

10. Re:表題変えてます

>武江さん

タイトル変更されたんですね。よかった。タイトルに嫌な思いされていた方は他にもいらっしゃったのでしょうか。折角の記事なので、タイトルだけで台無しにしてはもったいないです。

「乳呑児」、「乳臭」の当時の貴重な使用例を教えていただきありがとうございました。
とにかく、適当なイメージと現代の感覚で人物像を曲解されてしまうのは頂けませんね…

| 紀伊@赤石いとこ | 2011/06/30 01:20 | URI | ≫ EDIT

11. 忠興書状

紀伊様
どうも私が見たのは、gooニュースに出ていた段階のもののようです、ニュース検索では既に出てこなくなっていますが、私の「こぼれ話フォルダ」にコピーしてあるので(笑)。多くの人は、私と同じものを、読んだと思います。
さて、危うく見逃すところでしたが、ツイートにある、細川忠興書状の件、大いに気になります。宛先、日付、当時の忠興の所在地(恐らく秀忠、家光に供奉して京でしょうが)、可能であれば関連有りそうな前後の文章も、ブログ記事として紹介いただけますでしょうか?
一見した感じでは、「中宮様にお付き申している人々まで、大御台さまに各々見舞い(お悔やみ)を申し遣られているとの事です。細川家でもそうした準備をしておくように」とも取れます。
朝日の件(また後日・・・汗)を調べていて、その半年程前に秀忠生母西郷殿が死去している事に気付きました。西郷殿死去に関する『家忠日記』の記述についても、その前後の記述を知る事で、該当部分のみを読んだのとは、随分意味合いが変わって来るようです。
そういう訳で、周辺部分の情報を宜しくお願いします。

| 武江 | 2011/07/01 21:54 | URI | ≫ EDIT

12. Re:忠興書状

>武江さん

返信お待たせいたしました。
まずはニュースタイトル、訂正されたようで何よりです。

細川忠興書状については私もものすごく気になっています。
『細川家史料』については、別件で福田先生もチェックされていなかったように仰られていましたので、特に気になりました。

『細川家史料』の寛永三年九月二十一日書状の細川忠利(「越中殿」)宛書状の中に、二つの項について書かれてあり、一つは「大御台様御他界ニ付、振舞ニありかれ候事何もさしのへらるゝ由候、其分候哉、さ候ハゝ、我々所へ各御出ものへ可申候哉、世上之様子不存候間被立聞、御返事ニ可承候事、」とあり、もうひとつにツイートで挙げた「中宮様ニつきて居申候衆まて、大みたい様へ御事各被申遣由、弥其分候や事」とあります。

前後、江の訃報に関する内容は、同月忠利宛書状にて「大みたい様御他界之由候、定而可被存候へとも申候、就其、将軍様還御も延申候由候、大名衆二條へ○(可)被■(罷)出候哉、様子しらせらるへく候也、」とあります。
和子関連については、忠利への返書(同年十一月九日書状)にて、出産予定のことが記されています(「一、中宮様ハ当月御誕生之由候、恐々謹言」)。

ご覧の通り、情けないことながら私は読解能力がかなり残念ですので、また何かお気づきの点がございましたらぜひご教授いただけると幸いです。
よろしくお願いします。

| 紀伊@赤石いとこ | 2011/07/05 20:02 | URI | ≫ EDIT

13. こんな感じで

紀伊様
情報有難うございます。
この時期の忠興・忠利の動きが、以前から出入りしているある方のブログに、偶然にも、最近アップされていました。それを参考にして記しますと、忠興は、隠居して、豊前中津に在城でしたが、六月に上洛、十一月に帰国。当時小倉城主の忠利は、五月十三日小倉発駕上洛、九月二十六日に御暇の上使が来て、十月十七日に帰国、と言うことです。
両者共に京には居たけれど、顔を合わせる機会は、あまり無く、書状で意思疎通を図っていた感じですね。三斎の気の遣い様は、『江戸城の宮廷政治』の内容を彷彿とさせます。時系列順に見ると、
「大御台様が御他界されたとの事です。知っておられるはずとは思うが、申しておきます。それについては、家光公の還御も延期されたとの事です。大名衆は、二条城へ御出になるのでしょうか。様子を報せるように。」
「大御台様が御他界されたので、昇進祝いの振舞いに出歩かれる事は、皆延引するとの事です。把握していますか。そうであれば、私の所への、各々方の御出も、延引のはずであろうか。他家の対応の様子が判らないので、いろいろ聞き出して、御返事をいただきたい。」
「中宮様付きの(侍?)衆まで、大御台様に対し、各々お悔やみを遣わされるとの事です。ちゃんと把握していますか。」
という感じでしょうか。出遅れず、出過ぎず、の為の情報のすり合わせに懸命なようです。
出産を控えた和子本人に、江死去の報が伝えられていたかは、どうなのでしょうか。出産自体も穢れの対象のようですし、触穢の考え方も少し調べる必要が有りそうです。

| 武江 | 2011/07/07 22:20 | URI | ≫ EDIT

14. Re:こんな感じで

>武江さん

ありがとうございます。とてもよくわかりました。
親子で情報の確認をしていたということですね。

和子が江の子であるという論証のひとかけくらいにならないものでしょうか…
和子本人が何も動いていないと言われるとそこは否定できないのですが、「中宮様付きのものまで」という言い方から、和子にも何らかの動きがあったのではなかろうかと思うのですが…

やはりまだまだややこしいです…

| 紀伊@赤石いとこ | 2011/07/08 01:59 | URI | ≫ EDIT

15. 無題

紀伊様
同じ細川家の条文集『度支彙凾』に、文化七年五月廿日、将軍家慶生母・お楽の方死去の際の触れがあり、肥後では、六月十七日より鳴物十日普請五日停止となったようです。これは、側室であっても将軍生母としては妥当な忌服です。
書状にある、有職故実に関してとりわけ詳しかった幽斎の子忠興の、大御台・江の死去に関する対応振りから、当時はまだ、このような事態に、どう対処するのか、ハッキリした決まりは無かった事が窺えます。確か福田先生も、秀忠が、初七日明けに精進落しをした事を、書いていたように思います。初めての(前)将軍室の逝去ですので、まだ手探り状態だったのではないでしょうか。幕府の諸制度が整ってからの視点で考えるのは、間違いだという事を、この書状は語っているように思います。
忌服・触穢の事を考えれば、実の生母が別に在るなら、きちんと朝廷に伝えておかなければならないはずで、名が残らない事は無いでしょう。その事からも、江が生母であると考えるしか無いと思います。
養源院の供養塔が、七回忌の物だという確証が得られれば、七回忌に香典を供えた記録すらないとされている福田説は、論拠の一つを失う事になります。

| 武江 | 2011/07/08 23:19 | URI | ≫ EDIT

16. Re:無題

>武江さん

細川家のお話ありがとうございます。とても勉強になります。
「幕府の諸制度が整ってからの視点で考えるのは、間違い」という一節を、確かにその通りだと深く首肯します。

養源院の供養塔は、「七回忌」に「和子」が建立したというのは寺伝で残っているものなのでしょうか?
伝茶々姫像といい、字で残っていてもそれとは違う伝承が口伝で伝わっていたりするので、養源院さんの縁の品は確かに素直に受け止められないものがあるような気がします…

| 紀伊@赤石いとこ | 2011/07/12 05:41 | URI | ≫ EDIT















非公開コメント

TRACKBACK URI

http://chachahimeblog.blog.fc2.com/tb.php/977-fa22ede9

TRACKBACK

PREV | PAGE-SELECT | NEXT