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茶々の身長、秀頼の人となり

茶々姫が170cm近くあったという説って、あの「伝淀殿像」から来てるんだ。信憑性はそんなものなのに、江の遺骨から推定された身長の話くらいまことしやかに囁かれているんだなあ…

posted at 16:12:11


らしいですよ。なあんだ、といった感じです。
そもそもはスポーツ報知の記事が出典だったそうです。

茶々姫をたどる汐路にて

この肖像については、桑田忠親先生が「淀君」(『戦国の女性』)で、「この画像は淀君の死後かなり年がたってからの想像画であるらしい」とその不確かさを伝えています。

又聞きですが、「長政と市の肖像画を参考に描かれたもの」と聞いたこともあります。
この肖像画が作られた頃には、茶々に対するネガティブキャンペーンもすっかり根付いていたのではないでしょうか。そういったものを加味しないで、本人の姿を映したものでない可能性が高いのに、これを基に美醜だの身長だの論議するのはやっぱりおかしなことだと思います。

浅井家に大柄な人が多かったから、茶々も大柄だったのだろうとまことしやかに言われていますが、同じ父母を持つ江が小柄な人であったことは、骨から実証されています。茶々や常高院が小柄であったはずがないという論は成り立ちません。

そういえば、ネガキャンといえば、どうしても貶める要素がない場合、下のネタを使うのが常套手段だそうです。茶々姫の素行に関する俗説や推して知るべし、です。

同じ桑田先生の論文では秀頼について「暖衣飽食、遊情に流れ、いたずらに肥満していた」と辛辣です。また、「豊臣に姓の秀頼をこんなに育てたのは、もちろん生母淀君の責任でもあろう」と茶々の養育にも辛口です。

二条城会見で秀頼の所作振舞が家康を驚かしたエピソードは、秀頼が巷で噂されているような人ではなかったということを偲ばせるエピソードです。また、積極的に文武に触れ、様々な一流人に教示を受けていたことも何度も取り上げているところです。
また、教えていただいたところによると、秀頼のエピソードとしてよく語られる「肥満していて馬にも乗れなかった」というものは、かの今川義元にもあるエピソードで、敗者を貶める常套句だったそうです。
秀頼は幼いころから前田利家が特別に用意させて馬に触れ、愛馬と共に広い大坂城を駆けていたことでしょう。

大坂の陣の秀頼は、徳川からの偽りの和議を何度も突き返し、はじめから城を枕に死する覚悟であったといいます。必要以上に強気に描かれる母茶々よりもはるかに誇り高く威厳のある態度でした。
茶々が江戸へ人質に下るという案について、茶々はこれを了承しましたが、これは誇りの中にも我が子が生き延びてほしいと願う母の心であり、また江戸には妹がいるという安心感があったのでしょう。
でも、母親を差し出すということも当時の秀頼にとっては誇りに反することで、これを曲げて拒否しました。

現代の感覚では、むざむざと豊臣家を滅ぼすような道を選んで…と言われてしまいますが、当時の感覚と現代の感覚は全く違います。秀頼は、家康を向こうに回して諂わず、秀吉の子であるという「誇り」を最後まで貫き通した一生であったと私は思います。
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| ∟つぶやきまとめ | 20:00 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT

1. 大坂城について

対する徳川幕府の終わりについて、福沢諭吉は猛烈な批判を行っております。

無血開城=人命・財物の喪失は一瞬、士風の喪失は永遠とまで言い切っています。いわゆる痩せ我慢の論ですが、海舟らの行動は江戸を戦火から救ったとして、今でも最大級の評価を受けています。逆に、近代主義の右代表と思われている諭吉がかかる異論を唱えてたことは、ほとんど紹介されておりません。戦後社会にとっては、最も聞きたくない、生命・財産より大切なものがあるという意見ですから。

徳川慶喜は若年の頃より、幕府のエースカードとして期待されただけあって、確かに頭の良い人ではありました。鳥羽伏見で幕軍が敗れ、薩長軍が南下する形勢を見て、大阪城における茶々・秀頼の運命が、彼の脳裏をよぎらなかった筈がありません。

結局、慶喜は会津・桑名藩・新撰組ら傷ついた士卒を置き去りにし、夜中、軍艦で大阪城を脱出します。これが、武門の頭領のすることかと、篤姫はじめ江戸城中の者は逃げ帰った慶喜と口も利かず、膳部は食事さえ出さなかったそうですが、後の祭りです。この瞬間、徳川幕府は勿論のこと、頼朝以来の武家の時代が終りました。
慶喜は秀頼になりたくなかったのでしょうし、茶々・秀頼は慶喜になって生き長らえようとは夢にも思わなかったでしょう。これが、本当の意味での、価値観の違いです。
恨みを残すとすれば、大坂夏の陣において、秀頼が七手組を率い、千成瓢箪の馬印を背に 敵味方に悠然その偉容を(たとえ一瞬でも)見せておけば、ということだけです。皆、泣いたでしょうね。
豊家が滅びるのは 君臣覚悟の上のことでやむを得ざる仕儀にしても、しかし唯一これさえやっておけば、後世のネガティブ・キャンペーンを予め封ずることが出来、紀伊さんの優しい御心を煩わすこともなかったでしょうに。

しかし、毛利勝永、真田幸村らの諸部隊が 最終局面で、あそこまでの鬼神も避く勇戦力闘ぶりを見せるとは、敵はおろか、味方の予想さえ超えていたのではないでしょうか。余裕が無い、ぎりぎりの対応を迫られる側は局地的に有利な状況が生じても、それを全体として(この場合は、未来へ向かって)活用するプロデュースがなかなか出来ません。

これは 遠い過去の誰それを批判することではなく、後世に生きる私達が己自身に言い聞かせる言葉としてであります。

| 渡邊 | 2011/06/25 05:52 | URI | ≫ EDIT

2. Re:大坂城について

>渡邊さん

幕末のお話、楽しく拝読させていただきました。ありがとうございます。

秀頼の出陣は、ひとえにタイミングを逸したとしかいいようがありません。
秀頼自身に出陣の意思があったと記す史料もありますが、家臣のひきとめによってそれもかなわなかったようです。
あのような落城を前にした混乱の中、タイミングを逸して出陣しても賢明な判断とは言えませんので、家臣の言葉を聞き入れて従容と自刃を覚悟したことに対しても、私は豊臣家当主として誇りを失わず判断を怠らなかった人だったと感じました。

おそらく、秀頼が意地になって出陣して敵の刃に散っていたとしても、今頃は違った言葉で貶められていたと思います。

少なくとも死を前にして、「私はこれからひと眠りしそれ後腹を切ろう」という旨の言葉は、死に怯える人間には口にできない言葉だと思います。

| 紀伊@赤石いとこ | 2011/06/26 21:37 | URI | ≫ EDIT

3. 秀頼出陣

>紀伊@赤石いとこさん
確かに。仰せの通りで、タイミングを捉えるのは非常に難しかったと思います。

早めに出て城に戻るのはページェントとしては可能にしても、本陣から先に崩れた形になりますし、遅れて出るのは全くの有害無益。中途半端に出ていたずらに踏みとどまれば、敵の集中攻撃を誘うでしょうし。

元々籠城が不可能な故の野戦ゆえ、考えれば考える程に、浪人諸将の総大将にして、太閤の城の主たる秀頼の立場の困難さが判ってきます。

死を前にしての秀頼の言葉は、…初めて存じ上げましたが…、どこか、ローマ人のようですね。
(軽佻なヒロイズムを嫌う風があります。)

鎧を脱がせてくれ、一日の長い仕事を終えて、我々は眠らねばならぬ。

アントニーの最期の台詞(シェークスピア)ですが、
チャーチルは 英国人は一生に何度か、この台詞を自分自身に向かって言い聞かせるのだ、と語っております。

| 渡邊 | 2011/06/29 21:48 | URI | ≫ EDIT

4. Re:秀頼出陣

>渡邊さん

私にはヒロイズムのなんたるか理解しかねますが、茶々の母市の再婚相手柴田勝家も、自刃を前に盛大な宴を開いています。
今生の別れを言い合い、自刃に向けて英気を養うというのが流儀だったのかもしれません。また、そのように従容とした態度が美徳とされていたのでしょう。

| 紀伊@赤石いとこ | 2011/06/30 01:25 | URI | ≫ EDIT















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