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浅井鶴千代~三好直政の謎

干身様のところで、私の記事を紹介していただきました。ありがとうございます。
リンクしようかと思ったのですが、ブログの性格も少し違うので、直リンクはやめておきます。

紹介していただいた記事はこちら⇒『十六・七世紀イエズス会日本報告書』

記事の中で、私は大した検討もなく、浅井(三好)直政の妻明石全登の娘をレジイナの姉カタリナかと推測しましたが、干身さんはレジイナ自身が直政の妻では、と考察されています。そうかもしれないと思いました。
また詳しいことは改めて記事にしたいと思っていますが、例の『十六・七世紀イエズス会日本報告書』では、レジイナの経歴について簡潔にいうと、「城を逃れ、さまざまな経緯で家康に弁明し、釈放されたあと信仰に生きた」とあります。

その流れで夫直政といつ頃婚姻したのだろう…と考え始め、実は慶長六(1601)年、もしくは慶長十一(1606)年生まれだったという直政の生年を知り、母とされる海津局や祖母とされる浅井鶴千代との年齢の不合理にぶつかり、一晩うんうんと唸りながら考えておりました。

今回のつぶやきはその経緯です。

浅井明政の妻浅井鶴千代と宗正寺に入った海津政元の妻は別人なのか…。そうすると饗庭局との関わりはまた別の話ということ…?

posted at 13:30:37

昨日、海津局一家のことが気になりだして眠れなくなってしまった…。『寛政重修諸家譜』曰く、海津の息子直政は寛永七(1630)年没で没年が三十歳もしくは二十四歳ということは、生まれ年は慶長六(1601)年か慶長十一(1606)年。

posted at 16:22:07

その父政高は元和元(1615)年没で没年五十五歳ということは生年は永禄四(1561)年。直政が生まれたときは四十一歳、もしくは四十六歳。

posted at 16:24:17

政高と海津局の間にはあと三人娘がいる。これがみんな直政の姉だとして、直政が慶長六年生まれで、海津局三十五歳の子どもだったと仮定すると、海津局は永禄十(1567)年ごろの生まれ。海津局の母鶴千代の生年も不詳だけれど、天文二(1533)年には夫明政と寄進の記事がある…

posted at 16:29:17

若く見積もって天文二年に十二歳だったとしても、海津局を生んだのが四十過ぎになってしまう…。鶴千代と海津局の間に、どうしても一代抜けているような気がしてならない…。

posted at 16:34:31

もしくは、海津局と直政の間に一代抜けているのかもしれない…。

posted at 16:41:17

①鶴千代・明政―海津局(海津尼、政高妻)―海津局(海津、明政養女、田屋式部妻)―直政かなあ…と。もしくは②鶴千代・明政―饗庭局―海津局―直政も考えました。もう少し手がかりがほしいところです…

posted at 23:14:15


①宗正寺と浅井明政妻鶴千代・海津政元妻・饗庭局
鶴千代についての考察は、『高島郡志』を読んだ時に、浅井明政と同一人物とされていた海津政元の妻の没年が天正五年になっていたことに引っかかったものです。
鶴千代さんの没年は、『戦国大名閨閥事典』によると慶長七年で、戒名も記されています。これの出典が分かればもっとはっきりするのですが…。医王寺さんあたりの過去帳などが出典なのでしょうか。
境内には海津政元夫妻のものとされる供養塔があるという記載もありました。
浅井亮政の娘には、嫡女である鶴千代(浅井明政の妻)の他に海津政元の妻がいたということがうかがわれるのです。

では、鶴千代は宗正寺とは関係のない人だったかというと、宗正寺は開基が饗庭局と誤伝されるほど饗庭局に縁の深い寺院です。郡志曰く、饗庭局の位牌が寺に残り、『名墓録』に局の供養塔があることが書かれていたことは以前記事に取り上げた通りです。
鶴千代は、いろいろな系図によって浅井明政と鶴千代の娘とされています。

海津政元の妻と饗庭局は叔母姪の関係ということになりますが、かといって無関係ではありません。
政元妻と鶴千代の交流があり、饗庭局の帰依するところとなったというところでしょうか。

茶々姫をたどる汐路にて

②直政周辺について考えている経緯 その後
その後、干身さんのところでこの疑問をぶつけさせていただいたところ、「直政が三好を名乗ったのは外戚の姓だったから」という『寛政重修諸家譜』の記述を注目する視点をご教授頂きました。

茶々が千の退城に際し直政・海津局をつけ、江がその後大切に保護していた直政・道高の立場や待遇を考えると、直政は間違いなく浅井宗家の血は引いていたのだろうと思うのです。

海津局には上記のとおり娘が三人いますが、その中に直政の妻はいませんので婿養子でもない。そもそも二代婿養子(鶴千代の夫明政、海津局の夫政高)ですし、直政の妻は何度もここで出てきているとおり明石全登の娘です。
そして、「外戚」とある以上、母が三好を名乗る人物で、父が浅井を名乗る人物であるということと考えられます。
つぶやきの中で検討している海津局が二代いた説、海津局は饗庭局の娘であった説はこれにあてはまりません。

最も単純に考えるならば、直政は海津局の嫡孫であり、父が海津局の息子、母が三好氏であったと考えるのが一番整合性があるでしょうか…

≪今のところの仮説≫
浅井亮政―鶴千代(婿養子:明政)―海津局(婿養子:道高)―息子(妻:三好氏)―直政(妻:明石全登娘)―道高

医王寺と宗正寺の過去帳を拝見しに伺いたい…どちらも遠方ですが…
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| ∟つぶやきまとめ | 23:00 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT

1. 海津局の息子

海津局と三好直政の間に、海津局の息子を当てはめるのはなるほどと思いました。この説だと三好の姓の出所も説明がついてちょうどいい感じに思えます。
私は、三好直政が、それなりに名の通った大坂方の武将と海津局の娘との子で、徳川の世になり父親の名前を出せなくなって海津局の息子ということにしたのかも、なんて考えてました。でもこれはちょっと妄想しすぎですね。ただの思いつきで、実際の根拠は0ですし。
私もいろいろ考えてしまって夜も眠れなくなります(笑)。

| あまのかるも | 2011/06/24 01:09 | URI | ≫ EDIT

2. Re:海津局の息子

>あまのかるもさん

私も三好姓のお話を聞いて今の説に行きつきましたが、それまでは海津局が二代いた説が最もありえると考えました。今でも場合によってはありえるかもと思います。江と完子のように、母娘が混同されることはしょっちゅうあることですし。
なんらかの裏付けされる史料や手がかりがあればいいんですけど…いまのところ手がかり的には息子説かなあと思います。こちらだと直政父と直政の混同…これも良くあることですし…

…いや、本当に、考え出すと大変です(苦笑)

| 紀伊@赤石いとこ | 2011/06/24 16:21 | URI | ≫ EDIT















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