
○西本願寺飛雲閣
西本願寺さんの飛雲閣の映像が聚楽第として登場していました。OPの資料提供に西本願寺が入っていましたね。
飛雲閣は聚楽第の御殿を移したものであるといわれています。
○大政所の病と旭
旭が徳川家から大政所の見舞いに聚楽第へやってきていました。ドラマ内では元気そうでしたが、このときの大政所の病は重かったらしく、一時危篤に陥ったとも言われ、快癒祈祷が各地で行われています。
旭が大政所の重病の知らせを受け、岡崎から上洛したのは天正十六(1588)年六月のことです。
従来、旭は徳川家に馴染めなかったため、これ以降徳川家には帰らなかったなどといわれていますが、ドラマ内で旭と家康との疎遠をにおわせる台詞は一切ありませんでした。そして、岡崎に帰る予定があるのかないのかも明言されませんでした。実際のところ、旭は同年九月に岡崎へもどり、再び上洛し、聚楽第で病没したそうです。
これも、聚楽第といっても、徳川家から離れたわけではなく、当時大名の妻子の集住が進められていましたので、聚楽第の中(「内野」)にあった徳川邸に住んでおり、そこで亡くなったのではないかと思われます。(参考:『江の生涯』)
○淀城と秀長
おそらく思いもかけず秀吉の子を妊娠した茶々ですが、なぜか男児を産むと明言していたところは、のちのち理由が語られるとはいえ思わず首をかしげるシーンでした。
鶴松出産以降、ずっと淀にいるように描かれることの多い茶々ですが、そして鶴松だけが跡継ぎとして大坂へ移り、寧の養育に置かれるように描かれていましたが、今回は鶴松とともに早々に大坂へ移っていました。ここは実は、最新の研究成果が反映されているところです(『淀殿』)。
淀城は茶々にとって産所であったと同時に、秀吉にとって京と大坂を結ぶ重要な拠点でした。秀吉の弟秀長によって普請され、広大な城郭が築かれたといいます。また、秀長は鶴松の後見でもあったようで、意外かもしれませんが、鶴松とともにあった茶々にとっても近しい人物であったようです。これまでは何かにつけ寧vs茶々の構図で描かれていたために、寧に近しいはずの秀長が茶々と縁があったはずが無いとされてしまっていたのでしょう。
ところで、淀城に関して、茶々が女ながら城主となったように描かれますが、これは正しい表現なのでしょうか。確かに淀城では茶々が唯一の女主でしたが、城主というのはやっぱり秀吉なのではと思いますが…素朴な疑問です。
○出産に駆けつけた人たちと父母の供養
出産シーンでおろおろする秀吉と江はとても微笑ましかったですね。今回の大河ドラマでは、この二人は親しすぎず対立しすぎず、このはしゃぎっぷりくらいの距離がとても自然に思います。
実際、出産に駆けつけた人としてあげられるのが浅井一族の浅井大膳介と茶々の弟正芸とされる蒼玉寅首です(『豊太閤の私的生活』)。しかし残念なことに、大膳介が特にどのような血縁であったのか、なぜ蒼玉寅首が茶々の弟とされるのかが出典がわからないために長年の疑問ですが、浅井の嫡女である茶々が秀吉の子を出産するという事態に、浅井の縁の人々が集められたというのはありうる話です。今回は初が同席せず、また江も実際には秀勝の妻になっていたと思われますが、この二人も実際淀に駆けつけていたのではないかと私は思います。織田家からも信包か有楽あたりが駆けつけていたかもしれません。
そして、茶々は無事嫡男鶴松を生んだあとに意を決して父母の供養を秀吉に願い出ていましたが、出産時の様子を見ると、生まれてくる子どもの母方の親戚として浅井家縁の人々が集っていることから、実際は既に父母の供養を願い出、許されていたのではないかと思います。茶々が懐妊した時点で、秀吉は浅井家に一定の地位回復を許したのではないでしょうか。
ドラマ内で登場した肖像画、長政のものは時任三郎さんのお顔でしたね。市も鈴木保奈美さんっぽかったのかな?北庄落城の回にも描いたのですが、ドラマ内で市が肖像画の姿をしたところを三姉妹は見ていないんですよね。そこをつじつま合わせればもっとよかったなーと思いました。
実はあの市の肖像画、同時に制作されたものであるという説と、実は後年制作されたものであるという説があったりします。実際はどうだったのでしょう…。
○落首事件
『淀殿』によると、天正十七(1589)年二月二十五日の夜、聚楽第の南鉄門(表門)に落首が貼られ、これを、奉行の前田玄以が密かに片付けたものの、秀吉の知るところとなり、番衆十七人が拷問さながらの処罰を受けたそうです。
江が「寺に逃げ込んだ者も処罰した」といったのは、関係者の中に本願寺に逃げ込んだ者がいたらしく、その身柄の引渡しや処罰に本願寺が大いに巻き込まれたようです。
番衆の中には、病み上がりの大政所の願いによって処罰を許されたものもいたようですが、老若男女百三十人近くが処刑され、秀吉の怒りのほどが伺われます。
落首の内容ですが、ドラマ内では茶々が懐妊したのは秀吉の子どもではないという旨のことが言われていました。ルイス・フロイスは一夫多妻を否定するキリスト教の関係者で、そのためか基本的に茶々について辛い記述が多いのですが、鶴松についても、秀吉の子どもではないと信じるものが多かったと後に記しています。
当時の厳しい奥御殿事情について、知識のある人は意外と少なかったようです。
実際に茶々に少しでも怪しいところがあれば、この騒動に巻き込まれ厳しい拷問の末に命を落としていたかもしれません。
○茨木城→淀城
ドラマ内では、大坂城から直接淀城に場面が転換していました。
実は淀城に移る前、天正十六(1588)年十月ごろに、茶々が茨木城に移されたことが福田先生(『淀殿』)によって明らかにされ、小和田先生(『北政所と淀殿』)にも採用されているのですが、その下りはありませんでしたね。挿入すれば「江紀行」のネタが増えたのに(笑)
○「淀殿と呼ばれ崇められ」…ません
茶々が生きているうちに「淀殿」と呼ばれたことが無いことは福田先生の指摘されるところです。
しばらく秀吉は対外的に「淀の者」「淀の女房衆」などと記し、朝廷は「淀の女房衆」と記し、公家や門跡は「淀の御上」「淀の御内」「淀の上様」などと記しました。
⇒茶々姫の立場と呼称①
ついでに、これ以降ドラマ内では茶々は「淀」と改名したように描かれるかもしれませんが、実際に茶々は亡くなるまで本名「ちゃちゃ」を使い続けています。秀吉も子どもたちの前では「おかかさま」「お袋さま」と呼んでいたようですが、茶々には「おちゃちゃ」と呼んでいたようです。
当時高貴な人が本名を名乗ることはあまり無く、本名の代わりに使われた称号のひとつが「淀」でした。茶々自身は、対外的な文書などで「淀」を使っていたのかなと私は推測しています。
しかも、周囲が茶々姫のことを呼ぶ・記す際に使われていた名前(称号)は茶々でも淀でもなく、「御上様」でした。少なくとも鶴松の誕生後から、晩年まで、豊臣家で「御上様」といえば対外茶々のことをさす呼称でした。吉田兼見も日記で茶々姫の事を記す際、「御袋様」と記した横にト書きで、「この方は御上様と呼ばれている」旨を記しています。
この感想記事は、茶々についての基本文献ともいえる福田千鶴先生の『淀殿』を主に参考にしていますが、この本で明らかにされたことの中で、ドラマ内で採用されている事柄と採用されていない事柄があり、その違いがいまひとつわかりません。時代考証の小和田先生が採用されているか否かかなあ…と思いきや、茨木城のようなこともありますし…謎です。
○高野山
最後に、「江紀行」に登場した高野山持明院。もともと「小坂坊」といい、浅井家の菩提寺だったそうです。

奥の院にも、豊臣家墓域に茶々が生前建立したといわれる逆修碑や浅野長政が建立した鶴松供養塔があり、現在はおそらくなくなっているようなのですが、秀頼と茶々の供養塔もありました。
⇒高野山 茶々姫逆修碑(伝)、茶々姫・鶴松・秀頼供養塔
また、コメントで教えていただいたのですが、上杉家墓域にも秀頼と茶々の供養塔があるそうです。その建立の由来や縁が気になります。上杉家によって建てられたものでしょうか。
画像があることからお察しいただける通り、一度高野山を訪れたことがあるのですが、これらのうちどれひとつとして見つけられなかったので、また是非リベンジしたいところの筆頭です。
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