Posted at 2011.05.24 Category : ∟江 姫たちの戦国
①氏「豊臣」と姓「羽柴」
「羽柴」あらため「豊臣」になったというよりは、氏が新しく「豊臣」となっただけで、姓は「羽柴」のままです。
秀吉自身が「豊臣秀吉」と名乗ったことが無い(文書類でしか登場しない)など、いろいろ指摘されていますが、すっかり定着してしまい、わかっていても改めるのはなかなか容易なことではありませんね…
②秀吉の出自
みんなにあきれられていた出自の話ですが、あれは秀吉が語り大村由己が記したという『関白任官記』という史料に出てきます。
秀吉は父方ではなく特に母大政所はもちろん、母方の祖父母の供養(祖父:栄雲院道円、祖母:栄光院妙円)に重きを置いていたらしく、文禄四(1595)年九月から慶長二十年まで、大政所の父母の忌日に交互に千僧会が営まれていたそうです。
このような出自の脚色は、自らの権威のためというだけでなく、自らが天皇のご落胤であるということによって、日秀など他の兄弟とは格差をつけ、自らの跡継ぎはその血を引く秀頼以外に存在しないと示すためのものでもあったそうです(河内将芳氏)。
③初と高次
私も初と高次…というか、三姉妹と高次は既に面識があったものと思います。
「京極御系図」によると、高次は本能寺の変の後、直接の血縁に無い市を頼って柴田家へ来たということですから、これが事実であれば、直接血縁のある三姉妹とは挨拶など直接顔を合わせる機会もあったでしょう。
「越前国主柴田修理亮勝家ヲ御頼有、勝家内室ハ信長公之御妹ニテ初浅井備前守長政之妻女也、常高院殿・淀殿・大御台様之御実母也 天正之初浅井滅亡之時織田家江御帰、其後勝家江御再嫁被成小谷之御方ト云、此由緒ニヨリ暫越前被成御座候、」(京極御系図)
…といいますか、この由緒でかくまってもらった経緯があるというのならば、京極家再興の思いは強くとも、浅井家に対してそこまで悪意を抱いていなかったのでは、と思えますね。
私としては、信長の生前に初との婚姻話があったのではと考えておりますので、市を頼ったのはその縁もあったのかもしれません。
ところで、初は大溝城に入ったのでしょうか。
高次の妻となったからには、人質として大坂城下にいたのではないかと思います。
おそらく既に茶々は女房として秀吉の奥御殿に入っていたでしょうし、秀吉の養女として秀勝の妻となっていたであろう江も大坂城下の屋敷にいたでしょうし(でも秀勝が蟄居していた間はどうしていたのでしょう…)、三人が親しく顔を合わせる機会は実は少なくなかったのではないかと思います。
④朝鮮出兵
家康の台詞としてはや登場しました。
いつもドラマなどでは鶴松の死と関連付けられて取り上げられることの多い朝鮮出兵ですが、信長にその意があったこと、秀吉は信長の意志を踏襲したのでは、という見方が採用されたのは珍しいように思います。
「羽柴」あらため「豊臣」になったというよりは、氏が新しく「豊臣」となっただけで、姓は「羽柴」のままです。
秀吉自身が「豊臣秀吉」と名乗ったことが無い(文書類でしか登場しない)など、いろいろ指摘されていますが、すっかり定着してしまい、わかっていても改めるのはなかなか容易なことではありませんね…
②秀吉の出自
みんなにあきれられていた出自の話ですが、あれは秀吉が語り大村由己が記したという『関白任官記』という史料に出てきます。
秀吉は父方ではなく特に母大政所はもちろん、母方の祖父母の供養(祖父:栄雲院道円、祖母:栄光院妙円)に重きを置いていたらしく、文禄四(1595)年九月から慶長二十年まで、大政所の父母の忌日に交互に千僧会が営まれていたそうです。
このような出自の脚色は、自らの権威のためというだけでなく、自らが天皇のご落胤であるということによって、日秀など他の兄弟とは格差をつけ、自らの跡継ぎはその血を引く秀頼以外に存在しないと示すためのものでもあったそうです(河内将芳氏)。
③初と高次
私も初と高次…というか、三姉妹と高次は既に面識があったものと思います。
「京極御系図」によると、高次は本能寺の変の後、直接の血縁に無い市を頼って柴田家へ来たということですから、これが事実であれば、直接血縁のある三姉妹とは挨拶など直接顔を合わせる機会もあったでしょう。
「越前国主柴田修理亮勝家ヲ御頼有、勝家内室ハ信長公之御妹ニテ初浅井備前守長政之妻女也、常高院殿・淀殿・大御台様之御実母也 天正之初浅井滅亡之時織田家江御帰、其後勝家江御再嫁被成小谷之御方ト云、此由緒ニヨリ暫越前被成御座候、」(京極御系図)
…といいますか、この由緒でかくまってもらった経緯があるというのならば、京極家再興の思いは強くとも、浅井家に対してそこまで悪意を抱いていなかったのでは、と思えますね。
私としては、信長の生前に初との婚姻話があったのではと考えておりますので、市を頼ったのはその縁もあったのかもしれません。
ところで、初は大溝城に入ったのでしょうか。
高次の妻となったからには、人質として大坂城下にいたのではないかと思います。
おそらく既に茶々は女房として秀吉の奥御殿に入っていたでしょうし、秀吉の養女として秀勝の妻となっていたであろう江も大坂城下の屋敷にいたでしょうし(でも秀勝が蟄居していた間はどうしていたのでしょう…)、三人が親しく顔を合わせる機会は実は少なくなかったのではないかと思います。
④朝鮮出兵
家康の台詞としてはや登場しました。
いつもドラマなどでは鶴松の死と関連付けられて取り上げられることの多い朝鮮出兵ですが、信長にその意があったこと、秀吉は信長の意志を踏襲したのでは、という見方が採用されたのは珍しいように思います。
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