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『誰も知らなかった江』、『図説戦国女性と暮らし』以来久々に必読の一冊でした。
ところどころ貴重な史料の情報がありますし、縁の地めぐり関係の本の中では群を抜いてマニアックなところまで網羅してありましたので、未読の方はぜひぜひ。
以下、備忘録をかねて私の感想です。
①『長府毛利家文書』と子々
まえがきから初見の史料で驚きました。
慶長四年九月十三日付けの書状で、江が「江戸に下り秀忠の傍で暮らしたい、もし別の女性に子どもができれば、これから気のさわりになってしまうので…」(意訳)というかなり生々しい内容です。
慶長四年といえば、秀忠の次女子々(珠)が生まれた年で、九月であればどの説に従っても、子々が既に生まれています。福田説に従えば子々の生母は江ではなく、子々が江戸で別の女性を母に生まれたすぐあとのこの書状のように江が意志を示したであれば、それはそれで跡継ぎは自分が産むのだという江の意気込みや焦りが伝わってきます。
逆に江が子々を伏見で出産した直後であるならば、早速続けての妊娠を望んでいたということに。どちらにしろ、出産は大変なことなので、江の覚悟や意気込みが伝わってくることに変わりはありません。
大変興味深い書状でした。
子々といえば、その本名について、子々が姑にあたる織田永(玉泉院)に宛てた消息に「禰々」と署名していることから、「珠」と改名したのではなく、ずっと「子々」を使っていたのではないかと指摘されていました。出典は松尾美恵子氏の記事のようです。早速確認してみます。
②長政の「長」は信長の片諱か
長浜城歴史博物館の太田先生は、賢政が長政と改名したのは信長の片諱をもらったもの(一字拝領)であり、この時期が浅井家が織田家との同盟が成立した時期であるという持論をお持ちです。
長政の「長」が信長の「長」なのかどうかは、前々から疑問に思っていたのですが、この点に関しても桐野氏が明快に検討されていました。
”信長が「長」の字を与えたのは家臣たち(丹羽長秀、菅屋長頼など)に対してで、大名クラスの事例はないため、この時期、長政が信長に接近したかどうかは微妙である”
”信長が自分の諱を与えるとき、家臣には「長」を与えるのに対して、「信」は大名かその子弟、あるいは上級公家に限られている”(ともに本文より)
③江の岐阜出生説
こんなにしっかりと江の岐阜出生説が書籍に登場したのは初ではないでしょうか。
出されていた史料は『濃陽志略』、『安土創業録』でした。
私としては、大きく揺れているところです。
『歴史読本』がただただ待ち遠しいです。
④小谷寺裏の供養塔…
何度か参拝したことがあったのに、寺の背後に長政の供養塔があることを知りませんでした。不覚です。
次回参拝の際には必ず。
⑤織田信包という人
『誰も知らなかった江』で市と三姉妹を保護した人物として否定されてしまった信包ですが、やはりそうすると後年大坂城で重きをなしたことが気になってくるんですよね。
桐野氏は、信包が関ヶ原合戦で西軍についたために蟄居となっていたのを、江がとりなし、蟄居がとかれたということを紹介されていました。信包が江によって蟄居を解かれ、その後大坂で召抱えられたということであるならば、やはり姉妹間で連絡のやり取りがあったのだなあと偲ばれます。徳川と豊臣の関係が流動的であったということでもありますね。
⑥北庄落城前の大宴会に三姉妹はいたか
『柴田合戦記』をもとに、落城前夜の大宴会に三姉妹(「姫公」)が同席していたことは間違いない、とされていますが、私としてはこれもなんともいえません。
そうなると茶々姫による勝家の供養の日にちがずれていることがどうしても気になります。
⑦二十三回忌という節目~自性院
自性院が慶長十年に現在地に移り、市の院号にちなみ「自性院」と改称したことが紹介されていました。案外遅かったのですね。
慶長十年はちょうど市の二十三回忌にあたっているとのことで、二十三回忌といえば養源院も長政の二十三回忌の前年に建てられていることを思い出しました。何か関連があるのでしょうか。
⑧佐治家と江
桐野氏は通説どおり天正十二年に縁組が行われたとという前提で、「江が一成夫人になったとはいえ、大野城に下ったとは考えにくく、上方か安土辺りにいた公算が高い」、「秀吉は江を一成の人質として手もとに置いていたと考えるほうが自然である」とされています。
また、佐治為興が犬を娶ったときに信長から一字を拝領して「信方」と改名した事例を紹介し、先の長政の一字拝領説の否定に繋げておられます。
⑨伏見城と秀忠の妻江
『徳川実紀』で江が秀忠と婚礼し、そして千を産んだのが「伏見城」とされている件について、従来であれば、この時期にまだ伏見城が徳川家の管理下になっていないことから、伏見屋敷の間違いであろうとされていたのですが、桐野氏は逆に江が秀吉の養女であることを重く見て、伏見城説は事実であり、秀忠を婿として迎え、千の誕生時も秀吉の養女としてなお伏見城に居住していたとされています。
征夷大将軍になるまで「豊臣」として叙位を受けていた秀忠ですので、この説は確かに一理あると私は感じました。
⑩大坂の陣に対する江の思い
大坂の陣の前後の江について、「難波戦記」の記述を引用されていました。
「新将軍家(秀忠)の御台所、御和睦の事を喜ばせ給ふ、此の御方は秀頼公の御母堂(淀殿)と御連理の間柄故に、別けて御喜悦まし/\て」
この頃の江の動向については史料が知られていなさ過ぎて、あまりにも江が無関心だったなどと曲解されることが多く、個人的にそんなわけはないと思っていたのですが、こんな史料があったとは驚きです(「難波戦記」は知っていたはずなのに…)。江の喜びは事実であったらしく、『元寛日記』に江が喜びのあまり(「御台所御喜悦斜めならず」)大掛かりな猿楽を興行したことも紹介されていました。
結果的に家康の思う壺であった冬の陣の和睦ですが、和睦に奔走した初や江はそんなことは露知らず、本気で姉を案じて和睦を喜んでいたのだということが察せられます。
⑪孝蔵主は誰の使者か
大津城攻防戦の和議について、孝蔵主が茶々姫(「淀殿」)の使者として紹介されてありました。孝蔵主はこちらで何度も言っている通り、長年寧の女中頭として仕えた女性なので、厳密に言えば正しい記述ではありません。
但し、「高台院と淀殿」で跡部氏が「まさか北政所が西軍を益する行為に加担したはずはないという思いこみが、京極家の家伝執筆者をして孝蔵主を淀殿の使者と誤認せしめた可能性は消しがたいが、北政所と淀殿の緊密なやりとりのなかで大津城への孝蔵主派遣が決まったのであれば、その記述をまったくのあやまりと棄てることはできない。むしろ史実の一端を反映している可能性がある。」と論じられています。
なるほど、確かに孝蔵主の行動に当時の茶々姫の意志が反映されていないかというと、一連の行動に寧と茶々との綿密なやり取りがあったということですから、そこまでは言い切れません。
⑫千が秘蔵していた秀頼の遺品~大信寺
千が本多家に再嫁したのち、周清上人に依頼して行われた魂鎮めの祈祷の際に使われたのが秀頼の自筆神号でした。この件で千が実家を憚りながら、秀頼の遺品を大切に所持し続けていたことに感銘を受けたのですが、大信寺という忠長の墓所があるお寺には忠長没後に千から供養として寄進された袈裟があり、それはもともと秀頼が着用した陣羽織を仕立て直したものという伝えがあるそうです。あのようなギリギリのタイミングでの退城で、満足に形見分けもできなかったでしょうけれど、豊臣の面影を排除する幕府の方針の中、数少ない遺品を大切にしていた千にとって大坂城での生活は決してつらいばかりの日々ではなかったのだなあと感銘を受けました。
⑬高野山奥の院への誘い
鶴松や茶々姫の逆修塔があるらしい(でも最近「上臈」はとある別人なのではないかとも思っていますが)、高野山奥の院の地図がかなりわかり易く掲載されていました。江の供養塔もあります。
以前高野山に行ったとき、石田三成や明智光秀の供養塔は見ていたので、近くまで来ていたのに見逃したのだなあ…と改めて無念。ぜひこの本を片手にリベンジしたいです。
⑭本国寺日秀一族供養塔
待望の本国寺の完子供養塔が掲載されていました。
ぜひ直接お参りしたいところのひとつです。
⑮『誓願寺奉加帳』
誓願寺の項で、『誓願寺奉加帳』に三姉妹がそれぞれ寄進をした記録が紹介されています。これについては、野村昭子氏が『波上の舟 京極竜子の生涯』でも同様に解釈されています。ただ、私は「岐阜宰相様御簾中」が江であることについて異存はないのですが、他の二人について「大津様御局」を初、「御茶様」を茶々姫とされていることについて、これは別人ではないかと考えています。
まず初はまだこの寄進が行われたらしい時期(天正二十年前半とされる)に初の夫京極高次が大津城主になっていません。そして、鶴松の母となり、小田原合戦に従軍した後、ある程度立場を確立していたこの頃の茶々姫について不躾に本名を記さるのはありえないこと(記されるとすれば、「太閤様御上様」、「大坂御上様」辺りになるはず)、しかも「茶々」を省略して「御茶様」とする一次史料が他に見えないことがその理由です。
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