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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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第十六話「関白秀吉」【大河ドラマ感想】

 
すっかり秀吉の名参謀状態の江ですが、今回は利休さんもノリノリでしたね。

○秀吉の姉妹

秀吉の家族が勢ぞろいしました。

大政所の「なか」、秀吉の姉「とも」という今では通説になってしまっている名前は、一次史料では実は確認できないそうです。「旭」ももともとの名前ではないだろうということで、歴代大河ドラマではいろいろな名前をつけられてきたのですが、今回は「旭」で通すようですね。

旭は、旭→小姫→江と豊臣家と徳川家を結ぶ重要な役割を果たした女性の先鋒で、実は重要な存在なんじゃないのかと思っている女性の一人です。

「とも」さんこと日秀は、三人の男児に恵まれながら長男秀次は秀吉と対立の末自刃、次男秀勝は若くして出兵先で病没、三男秀保は秀吉の弟秀長の養子となるもやはり若くして亡くなっています。
最初に亡くなるのは次男秀勝ですが、すでにその時点で秀勝の死を悼み出家したらしいことをこの間教えていただきました。秀勝が甲府から美濃に転封となったときに、日秀の嘆願によるものであったというエピソードを考えると、秀勝の死を悼んでの出家は充分説得力があります。
それにとどまらず秀次、秀保と悲劇は続くのですから、日秀も妹に負けず劣らずの厳しい人生だったことが偲ばれます。

しかしながら、秀勝と江の間に生まれた完子は無事成長し九条家に嫁ぎ、日秀の血は現代まで脈々と受け継がれています。日秀もこの孫娘のことを相当気にかけていたらしく、完子の夫忠栄の日記には、たびたび日秀が九条家を訪れている様子が記録されています。
忠栄の日記に見える完子と日秀の交流を見ていると、九条家に嫁ぐ以前から日秀と完子の間には交流があったように思われてなりません。完子は茶々姫の元で育っていたわけですから、今日考えられている以上に、完子を通して日秀と茶々姫の交流は盛んだったのかもしれません。

日秀が息子たちや孫たち、その縁者だけでなく、大坂の陣の後に秀頼やその母茶々姫の菩提をも丁重に弔っている背景にはこういった交流があったのではないかと考えています。

○初がキリシタンになった経緯

ドラマではすでに「耶蘇教」に興味津々の初でしたが、細川たまとの接点があったかどうかは定かではなく、実際は父方の伯母であり姑である養福院(マリア)の影響であったようです。

マリアは自分の子どもたちの改宗に努めていたようですが、高次の改宗に当たり、まず大坂で妻の初を口説いて改宗させ、その後高次を改宗させたといいます(『日本切支丹宗門史』、『イエズス会書簡集』/『京極家とキリシタン信仰』によると、高次の改宗が1601、2年頃のこと)。

マリアの子で唯一改宗しなかったのが秀吉の夫人であった龍ですが、『日本切支丹宗門史』によると改宗の意向は大きかった、とされています。改宗を拒んだ原因はなにより秀吉が禁教令を出していたことなのでしょう。秀頼を盛り立てる立場上、秀吉の禁教令を守っていたことは想像に難くありません。
しかしながら、大坂の陣で秀頼が亡くなって以降、幕府が取締りを始めていたとはいえ、家族みんながキリシタンであった中、最後まで改宗せずに誓願寺に帰依していた様子を考えると、龍自身が熱心に改宗を望んでいたというわけではないのかな、という気もします。
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プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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