こちらの記事で取り上げたニュースを見てからずっと行きたかった、若狭歴史民族資料館のテーマ展へ行ってきました。大変充実した内容のテーマ展にもかかわらず、入館料の100円(大人一名)以外必要なく大変お得な展示でした。
○「な」と署名された初自筆書状
問題の書状、拝見して来ました。
『小浜市史』で予習してきた常高寺文書の他に、栄昌院文書にもおなじ署名のものがあり、一通に留まらなかったことがまず驚きです。
栄昌院文書のほうは、学芸員の有馬先生に解説いただきました。宛名が切封に掛かっており惜しくも不明ながら、頻繁に書状を交わしている相手で、近々会うことになっているらしい人物へ宛てたものだそうです。
内容はもとより、「しもまいる」と確かに初の侍女である「しも」の名が記されていますので、これは初の書状なのでしょう。
今回は写真展示で、しかも釈文はどこにもないらしく、有馬先生の研究が待ち遠しいです。
なお、初のことを「於那」と記した史料は丸亀にあり、「御鐺」と記した史料は常高寺関係のものだそうです。
後者について常高寺のご住職にお伺いしましたがご存知でなかったため、有馬先生しかご存知でないのかもしれません。
どちらにしろ、どれも一般人では見ることのできない史料だそうなので、こちらも早くこの目で確認できる日が来ることを祈っています。
若狭地方で「初」というのは次女を指すそうで(長女は「いち」だそうです)、初は自分の称として「初」を使っていたのではないかとのことでした。少なくとも若狭地方では、というお話なので、ひょっとしたら近くの湖北地方も…?実際に「初」と称していたのだとしたら、いつごろから使い始めたのか、その辺から絞れるかもしれません。
となると、徳川初の名前の由来について引っかかってきますが……古奈に続く初にとって「二番目の娘」という意味でしょうか?(古奈とどちらが年上でしたっけ…)
徳川初が初の二番目の娘となったために、称を「藤」と改めたということですと、特に矛盾がないのですがどうでしょうか。まだなんとも言えませんね。
○初の守り本尊弁財天像
初が生きていたころに作られたと推定される弁才天像。
初も弁財天を守り本尊としていたとは、浅井一門(特に女性)にとっての竹生島信仰の大きさが伺われます。
○初の侍女
小少将、新大夫、たき(多芸)、しも、ちゃぼ、楊琳、祖旭「七人の侍女」と呼ばれる侍女のほか、小宰相、たけ、あやや、きく、みむら(御室)など、初に仕えた侍女についてどのような働きをしていたかが解説されてあり、当時女性を主人に仕える侍女がどのように役割分担をして仕事をしていたかが偲ばれました。
戒名なども記されてありましたので、常高院墓地にある侍女たちの墓もそれぞれ特定できました。
○徳川初
テーマ展の図録に、徳川初が二度出産をしたようだが早世したらしい、という旨の記述を見つけて驚きました。しかし、図録を確認したのが帰宅後だったために、有馬先生にお伺いすることはできませんでした。また機会があればぜひお伺いしたいです。
○「大坂両御陣供奉御人数」
小浜市立図書館酒井家文庫所蔵の「大坂両御陣供奉人数」には秀頼・茶々姫と最期を共にした人たちが残されているそうですが、そのうち女房衆は「大蔵卿他女性四名」とありました。展示されていた頁が女房衆の記されていたところではなかったので確認できませんでしたが、またこちらもお伺いしてみたいです。
○「凌霄開山和尚伝 附開基伝」
常高寺所蔵のこの史料には、初が茶々(「阿姉」)や千(「令姪公」)と落城を共にするつもりだったが、従う家臣に諌められ、城を脱出したという内容がかかれています。
当時の様子を初の側から記した史料は他にありませんでしたので、興味深いです。
千については、千に仕えていた女房衆に交じって浅井家嫡女蔵屋夫人の血を引く海津局母子、秀頼の娘(のちの天秀尼)が城を出されていますので、秀頼・茶々・大野治長が相談して脱出させたというのが本当のところでしょう。
初についても、秀頼が「役立たずは出て行け」というようなことを怒鳴りつけたという話がありますが、秀頼が感情を露にする様子は他に見られませんので、そもそも秀頼が共に死のうとする叔母を道連れにしたくなかったというのが真意ではないかと思います。
「おきく物語」によると、初が大坂城を出たときには家臣に背負われていたということですので、脱出は諌められてというよりもっと力ずくだったのかもしれません。
○初の最期
初が死病に取り付かれたとき、御所の和子から使者(加藤理右衛門/『大内日記』)が下されています。このこともやはり和子にとって血を分けた伯母だからではないか、という思いがあります。
葬儀の際は、忠高が棺を背負い、高和(高次次男高政の子)が位牌を持ったということです。
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