前回と今回、大野編も二回で終了でした。相変わらずのハイペースです。
①そういえば数え十二歳。
枕絵で柄にもなくひっくり返った、やっぱり腐っても(笑)御姫様育ちだった江。
まさか枕江が生娘のまま帰ってくる布石になろうとは。
少女マンガチックではありますが、確かにこの江はまだ数え十二歳。小学五年生くらいです。
当時、若くに婚約して、妙齢になったら輿入れするというパターンが普通だったようで、三歳で輿入れした江の娘(と言われている)珠も、実際に長女を産んだのは数えの十五歳でした。
例外的に、前田利家の妻まつは同じ数え十二歳で長女を出産していたりします。
この違いは彼女たちの実家など、後ろ盾の違いでしょうか。
②小牧・長久手の合戦
あっさりと小牧・長久手の合戦が終わってしまいました。
合戦シーンは今回も本陣の様子以外にはありませんでしたが、これは女性視点のお話ということなのでしょうか。
しかし、この合戦、市のこだわっていた「織田家を守る」という意味では結構重大事件です。
この講和を境に信雄と秀吉の関係が…「逆転」という言葉を使ってもいいのかどうか分かりませんが…信雄の立場が悪くなります。そして、このあたりを境に、三姉妹の身柄は完全に秀吉の管理下に置かれたともいえます。
②秀吉は父
これは、まるで三姉妹全員にとって秀吉が父のような言い方でしたが、秀吉が父(養父)となるのは江だけです。茶々・初は秀吉の保護下にありましたが、養女関係ではありませんでした。初の結婚も、秀吉の肝いりではありますが、初は秀吉の養女になって京極家へ嫁いだわけではありません。茶々姫はいわずもがなです。
そして、江が秀吉の養女となるのは、次の旦那様である羽柴小吉秀勝からです。『兼見卿記』の記事によれば、これは今回の舞台である天正十二年の翌年天正十三年に祝言があったとされていますが、今回の大河ドラマでは小和田説に従って天正二十年の輿入れになるでしょう。
④今週の龍子さん(笑)
「お手紙書きます!」→「…で、何を書くの?」
完全におとぼけキャラですね(苦笑)
私が想像していたお姉さんキャラとはちょっと違いますが、嫌いじゃないですむしろ好きです(笑)
いえ、もちろん本物の龍さんは京極家を背負って秀吉の側にいた訳ですから、もっとしっかりしていたはずですが!
そして、やっぱり背負うものがあってしっかりしなきゃ!と思っている女性に弱いと思われる秀吉はこのお龍さんをそれはもう大切にしたわけです。龍子さんの手紙を疎かにするなんてそんなことなかったと思います。
⑤羽柴秀次
秀次、初登場でしたね。
原作では江は秀次とも心を通わせていたように思いますが、どうなるのでしょう。
あんまり良いキャラに描かれないのかな…とちょっと不安になる今回でした。
(個人的に秀次好きなのですが。最近ご縁も多いし…)
⑥大坂城移り
茶々と初が、天正十二年八月に完成したばかりの大坂城に早速招かれていました。
これも小和田先生の『戦国三姉妹物語』の通りですが、更に宮本義己氏は『誰も知らなかった江』において、秀吉が前田利家の娘摩阿に対して「明年(天正十二年)には大坂に呼びます」と書き送った書状を例に挙げられています。
実際に茶々姫がこの当時大坂城にいた形跡というのは、『兼見卿記』天正十三年正月二十八日の記事にある「大坂ニちゃ/\方」がそうだという説もあります。ただ、これが間違いなく茶々姫本人だと断定できるかと言われると、難しいところです。
また、天正十四年十月一日にも『言経卿記』に茶々姫が大坂城の大政所を訪問したとされる記事があるのですが、これも確実に茶々姫を示すかどうか断定できません。
…つまり、この時期に確実に茶々姫や初がいたことを証明できる史料は未だ存在しないんです。
後に妻となる摩阿も呼ばれたのだから、名実ともに秀吉の管理下に置かれることとなった茶々も初も大坂城に呼ばれたであろう、というくらいなのが実情です。
この件に関してはコチラの記事をご参照ください。


⑦今週の茶々…とお寧
「お寧さまのお顔を見ると何も言えなくなってしまいます」
それはなんという恋ですか、などというアホなツッコミは置いておいて…
秀吉を挟んで悪しざまに描かれるお寧さんと茶々姫の関係、今のところは市の書状と江の(が秀吉に書かせた)書状の鉄壁に阻まれた状態ですが、良好ですね。
市をして「頭のいいそなたなら理解できよう」と言わしめた今回の大河の茶々姫。今のところ、お寧さんに対してもそれと矛盾するところのない態度です。
上のセリフを聞いたとき、私は真っ先に山路愛山の「淀君論」(『豊臣秀吉 下』)を思い出しました。
「我らの知る限りにては淀殿もまた高台夫人の言う所は善く聴きたるように思わる。」
「さるを秀頼一生の大事ともいうべき場合に高台夫人の善く淀殿をしてその心を翻さしめたるを見れば、我等は高台夫人の徳を思うよりむしろ淀殿の高台夫人に対する尊敬の心篤かりしを察せざるを得ず。」
という節です。
この記事は全体を読むといろいろと突っ込みたいところもあるのですが、しかし明治時代に書かれたこの記事は、読み返すと的を得ていると思われる表現がいくつも出てきます。
明治時代に此処まで茶々姫の評価に疑問を呈したのは山路愛山氏か、森銑三氏くらいなものですが、それでも男尊女卑の時代にも疑問符を呈した方がいらっしゃったというのは私にとって大きな驚きでした。
大河の原作小説ではお寧さんがそれでも本能的に茶々姫になじめずに江を可愛がるというシーンがあって、そこがすごく残念だったのですが…実際はどうだったのでしょう。
私は、さすがに鶴松懐妊が分かった時は、秀吉、お寧さん、茶々姫の驚きは半端ではなかったと思います。
この時ばかりは、お寧さんも複雑な気持ちになったでしょうし、秀吉がそんなお寧さんを気遣って聚楽第に移す様子も見られます。
当時のことを考えればそれは当然で、それでも平静でいられるような人が普通ではありません。
それでも、やはり普段は今ドラマで描かれているくらいの距離間であったのではと思います。
その意味で、茶々のセリフは今後二人の関係がどのように描かれるのか期待したくなるセリフでした。
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