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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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大原・鞍馬・東山など ~京都冬?の旅 5日目

 
①寂光院(大原)
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・本堂の扁額に「寂光院御再興 黄門秀頼卿御母儀 浅井備前守息女 為二世安楽也」と掲げられています。k2さまに教えていただいた貴重な茶々姫個人の足跡。お寺では「秀頼が茶々姫のために寂光院を再興した」と解釈されていますが、「茶々姫が自らの現世と来世の安寧を願って寂光院を再興した」というのが正しい解釈でしょう。平成十二年五月九日付けで寂光院の火災を報じる京都新聞の記事では、後者の解釈で書かれていました。
・宝物館の年表によると、文化十(1813)年八月に秀頼の二百年忌が催されたことが寺伝に残されているそうです。文化十二(1815)年四月には徳川家康の二百年忌も催されていますが、江戸時代に秀頼の法要が行われていることは注目に値するのではないでしょうか。秀頼のみの法要であったのか、茶々姫など大坂の陣での戦没者も供養されたのかはわかりませんが、寂光院再興に由来するものであるならば、当時から再興の施主は茶々姫ではなく秀頼であると伝えられていたのかもしれません。
・本堂前に雪見灯籠があります。五三桐の紋の透かし彫りから秀吉寄進と伝えられていますが、これも本堂再建当時の茶々姫による寄進でしょう。私は寂光院で購入した冊子で知ったので現地でチェックすることが出来ませんでした。無念。
・淡交社『寂光院』によると、復元前の建礼門院像は江戸時代制作とのこと。この像に関しては、ダイナゴンさまがブログにて茶々姫がモデルとなったのではという可能性を言及されておられました。寧の像とする書籍があるそうですが、再建という形で寂光院に深く関わったのは茶々姫なので、施主をモデルに建礼門院の木像を作ったのでは、というご意見。茶々姫は確かな肖像がひとつもないので、そうであればいいと思います。
・平成十二年の火災の被害にあった本堂、扁額、建礼門院像などは復元されたものなので、作られたばかりの頃こうであったろうと思われる鮮やかさです。
・茶々姫が特に寂光院を、ご自身の名前で再建されたのは、源平合戦で身寄りをなくされた建礼門院に格別な思い入れがあったのではないでしょうか。「わたくしは身寄りがないので…」と心情を吐露した片桐且元宛の音信と、寂光院に思いを馳せる茶々姫には重なるところがあるように思います。

②由岐神社(鞍馬)
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・慶長十二年、秀頼の名前で本殿と拝殿が再興されたのですが、当時の建物が残っているのは拝殿のみ。擬宝珠には、再建した日時「慶長十二年正月吉日」、施主として「豊臣朝臣秀頼公」、奉行として「建部内匠頭」と刻まれています。
・お寺の方曰く、こちらの神社はそもそも菅公さんの怒りを鎮めるため朱雀天皇の詔で、現在の場所に移されたものだそうです。秀頼の名による由岐神社修築は北野天満宮の修築と同時期のため、天神信仰との関係性を指摘されていました。またそれが真実であるならば、由岐神社再建の志もまた、茶々姫のものであった可能性があります。茶々姫の天神信仰の篤さがうかがえますが、これは茶々姫に限ったものではありません。豊臣家と天神信仰の関わりについては、寧もまた篤く信仰したところであり、高台寺にも寧に由来する天神社があります。
・由岐神社の拝殿・本殿には菊と五三桐の紋が使われていました。菊の紋は由岐神社創建の由来に天皇のが大きく関わっているため特に許されたものだそうです。五三桐は再建に大きく携わった豊臣家に由来するものでしょうか。

③三十三間堂
・太閤塀
…天正十四年に秀吉が築いたもの。瓦には五三桐の門が多数並んでいました。なぜか一ヶ所だけ別の紋でしたが、修理の跡かな…?
・南大門
…秀吉が文禄四年に大仏殿の南門として築いたものを、秀頼の名前で移築されたものだそうです。三間一戸の八脚門。

④知積院
・長谷川等伯筆、祥雲禅寺襖絵など
…正面は松に立葵、側面には紅葉や菊、白菊などが見えました。
・庭園
…現在の知積院庭園の右手側は、祥雲禅寺当時のものだそうです。刈込を多用しているのが特徴だそうです。

⑤東福寺
・安国寺恵ケイ再興の退耕庵、九条道房再興の大機院、豊臣秀吉妹旭姫の菩提寺南明院などを拝観。もちろん外から。
・九条家墓地を垣間見ましたが、誰のものか判別できるわけもなく。完子の墓地があるのなら、生きているうちに一度でいいので手をあわせたいです。

⑥泉涌寺
・実は伝東福門院木像を求めて、迷いこんでしまったのですが、お話をうかがうとこちらには東福門院の持仏があるそうです。もちろん拝観できないものでしたが、貴重な情報を教えていただいて怪我の功名。

⑦戒光寺
・伝東福門院木像
…尼姿。割と小さめの木像。これが東福門院のものかどうかかなり微妙だそうですが、だとしたらどなたのものか気になります。
ご住職が写真がお嫌いとのことで撮影は許されませんでしたし、お写真が掲載された印刷物もないそうなのですが、某所で拝見できるのでまあいいや。実際に拝見できただけでもありがたいことです。

⑧豊国神社
・「馬塚」
…Twitterで教えていただいた宝物殿裏の秀吉のお墓だそうです。神社の方は「馬塚」と呼ばれていました。
豊国社破却に幕府が作ったもの、豊国社ができる前のもともとの秀吉のお墓という二つの説を伺いました。
供養塔の正面になにか掘られていたのですが、あいかわらず判読できませんでした…(苦手)
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Comment

1. 漢文

私は漢文はあまり得意ではないですが、中納言時代の秀頼公は五歳位から八歳位のようですので「寂光院御再興 黄門秀頼卿御母儀 浅井備前守息女 為二世安楽也」は「黄門秀頼卿御母儀浅井備前守息女 二世安楽為 寂光院御再興 也」なのかなと思いました。淀殿が自らと秀頼公の親子二代の安寧のためか、それとも自らを含めず二世の秀頼公のための再興とも思えました。

2016.01.03 | 田中[URL] | Edit

2. Re:漢文

>田中さん

「二世」は現世と来世だそうです。

2016.01.31 | 紀伊@赤石いとこ[URL] | Edit

    
プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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