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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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御所周辺、北野、大徳寺 ~京都冬?の旅 4日目

 
宿泊地に戻り、震災を知りました。
怖い思いをされた皆様に、心よりお見舞い申し上げます。

①聚楽第本丸跡石碑
・東濠跡(中立売通大宮角)
・西濠跡(中立売通裏門角、正親小学校一角)
・南外濠跡(智恵光院通出水下ル西入ル南側、松林寺前)
・鵲橋旧跡(松屋町通出水上ル東側、松永稲荷前)
…これのみ、石碑の刻字の色が剥げていたので少しわかりづらかったかも。
参考サイト:(追記予定)

②京極龍洞院邸跡
龍が、大津城攻防戦で寧と茶々姫の使者に救われ、送り届けられた京極の屋敷。
上京区西洞院一条下ル 賛州寺町(教えていただきました。ありがとうございます)
ご近所の方々に伺いながら探索。当然、跡地を示すものは何もありません。

③京都新城(「秀頼卿御城」)跡
現仙洞御所。
秀吉の生前、秀頼と共にここから参内し、「秀頼卿御城」と呼ばれた。
秀吉の死後は寧がここに入り屋敷として守った。
関ヶ原合戦の際、寧は城壁を壊し開城のうえ、御所へ避難した。
そんなエピソードがありありと浮かんでくるほど御所から近い場所にあります。
Twitterで、仙洞御所の庭園が小堀遠州のものであることを教えていただきました。どの時点で作られた庭園か気になりますね。
仙洞御所拝観は要申込とのことですので、次の機械には準備を怠りなく必ず。

④本禅寺
$茶々姫をたどる汐路にて-110311_1058~02.jpg
こちらの鐘・鐘楼は、摂津法安寺に秀頼の名前で慶長十一年に奉納されたものです。
鐘銘には、現在でも「法安寺」の名前と施主秀頼(「正二位右大臣豊臣朝臣秀頼公」)の名前、そして奉行である片桐且元(「片桐東市正且元」)の名前が見えます。
昨日この鐘にも茶々姫が深く関わっていらっしゃるらしい話をうかがって…気になっています。

⑤相国寺
慶長十年に秀頼の名前で再建された法堂が未だ健在でした。
承天閣美術館の学芸員さんにお話を伺ったのですが、秀吉の朱印状は残っているそうですが、秀頼関係のものは他には何も残っていないそうです。

⑥北野東向観音寺
もともと「観世音寺」北野天満宮の神宮寺の一つだったお寺。当時は「西向」と「東向」があったそうです。
現在の本堂(入母屋造本瓦葺)は慶長十二年北野天満宮再建のおりに秀頼の名前で再建されたもの。『当代記』によると北野天満宮の再建は茶々姫の発願だったそうですので、この東向観音寺の再建も茶々姫の意向であると思われます。

⑦北野天満宮
$茶々姫をたどる汐路にて-DSC_0013.jpg

・秀頼の名前で再建されたものは拝殿・本殿・多宝堂、本社、中門、東門、北門、廻廊、後門、透塀、校倉、神楽所、摂社地主神社本殿など
・本殿、拝殿の擬宝珠も確認してきました。大分見づらかったのですが、いくつもある擬宝珠すべてに施主秀頼の名前と且元の名前、日付が入っていたと思います。
$茶々姫をたどる汐路にて-110311_1317~02.jpg

・宝物殿に縁の品が多数展示。慶長十二年十二月吉日付の「北野天満天神本社」再興の棟札。施主は「右大臣豊臣朝臣秀頼公」、奉行は「片桐東市正且元」。
・慶長十五年五月吉日付の秀頼奉納絵馬。「絵馬」といっても、かなり巨大です。曽我直庵によって描かれた静の白馬、動の黒馬に、秀頼の直筆で武運長久祈願、日時、「松」の署名。秀吉が使っていた「松」の一字名を受け継いでいたことを初めて知りました。
・慶長二年奉納のふたつの釣灯籠。施主は秀吉と秀頼。一方には「御歳丙申」。これは、天文五年の干支で、秀吉の生年とされている。もう一方は秀頼の生年(文禄二年)の干支「御歳癸巳」の文字が。そして、五三桐とおそらく北野天満宮の梅の紋。最近では秀吉は天文六年の酉年生まれが有力な説となっていますが、どうなんでしょう。釣灯籠の文字は、確かに確認しました。
・摂社で豊国社があったのに少し驚きました。

⑦北野経王堂
現大報恩寺(千本釈迦堂)に秀頼の名前で修築したらしい経王堂が移築されています。
しかし、現地では何も書かれていませんでした。

⑧大徳寺
・前田利家室まつゆかりの芳春院、石田三成の墓地があるという三玄院などを外から眺めました。
・総見院の特別拝観へ。若く可愛らしいガイドさんについていただく。
・本堂では開祖、信長の等身大と伝わる木像。この木像の通りなら身長は160センチほどで、当時としては高めだったそうです。秀吉は同じ信長の木像を二つ香木で作らせ、一つは遺体の代わりに火葬したといいます。
・本堂に安置されていたお位牌、見えるところにあったものは信長のものが二つと、五徳(見星院)のもの。他は判別できず。ガイドさんによると、秀忠など徳川将軍のものもあるらしい。お位牌の数的に、徳川将軍全員の分があるようには見えませんでした。江のものがあったりしないでしょうか…。江が織田縁の姫だと意識されていたのなら、信長の菩提寺であるこちらに江の位牌などがあってもおかしくないなあと私は思ったのですが…。やっぱり単に時のの権力者であったからというだけ?
・信長画像。見慣れたものよりなんとなく渋くて好きだ。
・清正が朝鮮から持ち帰った火山岩で作られた井戸。この井戸は秀吉も茶会で使い、現在も使われているとか。そこかしこで清正が朝鮮から持ち帰った××、というものをよく見ますが、朝鮮でたくさん兵士が死んだために、船が軽くなってしまい、転覆の危険を避けるために岩や灯籠、手水鉢などを持ち帰ったと説明を受けました。なるほど。
・織田家墓地。信長を中心に信忠、信雄、秀勝、秀雄、信高、信好。独立して五徳。さらに離れて帰蝶、鍋。鍋の墓だけ系統が違った。信孝がいないあたり、秀吉の作った寺院という感じですね。五徳は、信康死後織田家に帰り、信雄の庇護にあったようですし、総領娘ですし、やはり長女は実家にとって特別という感じがします。生駒氏のお墓がないのは意外。やっぱり信長より先になくなったからからかな?でも供養塔があってもいいのに。


毎回、Twitterでの長々とごめんなさい。
Twitter→ブログと、メモ&備忘録がわりに使わせていただいている状況です。ご了承ください。
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プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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