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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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伊勢菊(阿古御局)

 
k2様より「伊勢系図」を見せていただきました。
『寛政重修諸家譜』での記述しか存じ上げなかったので、大変参考になりました。ありがとうございます。

そこで、今回は阿古御局こと伊勢菊について考察してみようと思います。
「おきく物語」の「菊」と混同するので阿古御局を使っていましたが、ここはできるだけ本名を使いたいので、「菊」とします。

そちらによると、菊は、秀頼付き上臈(大上臈)として十二歳(年齢は以下数えです)で召しだされたとのこと。
翌年、秀頼が参内した際には、秀頼と同車にて参内したとされています。同車というからには、当時かなり秀頼に近しい女性だったことが推察されます。

秀頼が参内したのは文禄五年五月十三日、慶長二年九月二十八日、慶長三年四月十八、二十日ですので、召しだされたのは文禄四年でしょうか。ただ、享年が三十六歳とありますので、十二歳当時は天正十九年となり、秀頼がまだ生まれいません。当然翌年天正二十(慶長元)年に秀頼の参内はありませんので、ここで年齢に矛盾が生じています。
享年三十六歳(天正八年生)が正しいとするならば、最初の参内である文禄五年時点でも十七歳です。参内した年齢が十三歳で、それが文禄五年であるならば、享年は三十二歳(天正十二年生)になります。
以上のことを踏まえると、菊は天正八年に生まれ、天正十九年に十二歳で鶴松もしくは茶々姫に仕え、文禄四年に十六歳で秀頼付きとなり、十七歳で参内したと考えるのが自然でしょうか。

それはともかく。
公家衆が、武士の娘が参内することはどうか、と後陽成天皇に奏上したところ、天皇は菊が「小松内府」平重盛の子孫であるから、特別仮親をたてずとも問題ないとの勅宣をたまわったそうです。このことから、秀頼に従った女房のうち、菊が特別仮親等を付けず参内を許された、とありますので、参内した他の女房衆(大蔵卿局や右京大夫局など)は仮親を設けたことが分かります。

それより、二三ヶ月、女房として内裏に仕え、「宰相」との女房名を与えられました。再び秀頼のもとへかえされる際には、「弁宰相阿古大上臈」の任官を賜り、内裏より「下される」形がとられました。
なお、秀吉が慶長二年四月二十日に定めた大坂城の城門掟では、奥への文を取り次ぐ女房「はりま・あこ」の「あこ」が菊のことであるとされています。

菊は当時十四歳、もしくは十八歳であり、奥向きの秩序を取り仕切るには幼い(若い)ように思われますが、これは福田千鶴先生の指摘される通り、「大上臈」を通じて秀頼の母である茶々姫に書状を渡すという形をとることで、茶々姫ひいては秀頼の権威を高めようという秀吉の狙いであったのでしょう。一方「はりま」の詳細は不明ですが、おそらくこちらは年嵩の、奥向きの文通を取り仕切る「門番」にふさわしい女性であったと推察されます。

その後、茶々姫たっての希望により茶々姫付きの女房となったとあり、特に内裏と同様に厚く遇されたそうです。茶々姫の信頼が厚かった背景には、秀頼に近しい立場であったことももちろん、そもそも仕えたのが茶々姫であったことがあるかもしれません。その出自や教養から秀頼付きに取り立てられ大上臈となったのでしょう。
「伊勢系図」によると、常には「阿古御局」と称されたとあります。ほかに「阿古」、「あこ」または「和期」(「和」は「阿」や「於」と同じ用途で用いられますので、これも「あこ」もしくは「おこ」とよむのでしょう)という名で残されています。

大坂落城の際には、女中が七、八人供した中に菊は入り、主二人と共に戦火に没します。院号は青松院。大坂城山里曲輪の供養塔でも、三十二義士の一人として列せられています。享年は三十六歳と記されていますが、三十二歳であろうと思われます。

茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫をたどる汐路にて
(菊は「和期の局」と記れています。)

弟の貞衡は菊(「上臈」)の養子となり、幼いころから秀頼に仕えていましたが、大坂の陣の後浪人となっていたこところを千姫に召され家康に仕えたそうです。その後、「従母」春日局の執成しで家光に仕えました(『寛政』)。
「伊勢系図」によると、父貞為(貞景)は斉藤利三妻の姪(春日局の「妹」=従妹?)を養女としたとあり、これが春日局との縁になったのでしょうか。

菊(妹鶴、弟貞繁)の母は松永久秀女(孫女とも)、貞衡ら弟妹の母は後妻「岸和泉守」(寛政:岸和田和泉守章憲)女であり異母姉弟であったようです。
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Comment

1. お久しぶりです(゚▽゚)/

長らく(?)多忙の為、ペタしかできずじまいでした。
城内の女性のポジションは私、あまり詳しくないのですが、
江戸城大奥のような仕組みだったのでしょうか。
また、当時の宮中は縁故がないと参内できなかったのでしょうか?

2011.02.23 | しなちくにゃんこ[URL] | Edit

2. Re:お久しぶりです(゚▽゚)/

>しなちくにゃんこさん

お忙しい中お越しいただいてありがとうございます。嬉しいです^^

江戸城大奥は「大奥法度」という物があるので有名ですが、当時の奥御殿もきっちりとした秩序があったようです。
豊臣家の奥御殿でいうと…本丸は当番のお咄衆以外入ってはいけないとか、秀頼の小姓でも十を超えたものは秀吉の留守中に出入りしてはいけないとか、秀頼や茶々の御用係のものも、鉄御門より内は入ってはいけないとか、手紙も必ず決まった侍女を通してしか奥御殿の女性とやりとりしてはいけないとか、女性でも夜間の出入りは禁じられていたりとか…そういった触れが二度に渡り出されており、結構細かいです。

また参内については、菊についての記述で、武士の娘は仮親を立てずに参内できないと公家たちが奏上しています。
かの春日局も、三条西家に仮親となってもらい、参内していますので、それについては間違いないと思われます。

2011.02.23 | 紀伊@赤石いとこ[URL] | Edit

3. 無題

はじめまして!

初コメントです。

阿古御大好きです。彼女の生没年、戒名はわからないのでしょうか。

2011.04.26 | じゅりまつ[URL] | Edit

4. Re:無題

>じゅりまつさん

こんにちは。コメントありがとうございます。

伊勢菊の生没年についてですが、生年についてははっきりしません。私は天正八(1580)年の生まれではないかと考えていますが、天正十二(1584)年という説もあります。
没年はご存知の通り、秀頼や茶々姫と最期を供にしたといわれておりますので、慶長二十(1615)年五月八日です。

戒名についてですが、いまだ私は伊勢菊の戒名を記した史料にであったことがありません。
院号のみでしたら、記事で書かせていただいた通り、に「青松院」と残っております(「伊勢系図」)。

ひょっとしたら伊勢氏の菩提寺や高野山あたりの史料などに戒名が残っているかもしれませんが…記事にある以上の答えには今もって辿り着いておりません。お役に立てず申し訳ありません。

2011.04.26 | 紀伊@赤石いとこ[URL] | Edit

    
プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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