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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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『寛政重修諸家譜』再読

 
史料整理の合間に、『寛政重修諸家譜』を再読していました。
物覚えが悪いので(苦笑…)、読むたびにいろいろと発見があって面白いです。



『寛政重修諸家譜』再読中。尾張浅井氏の田宮丸弟政重は、豊臣秀俊死後、督の勧めで徳川家に仕えている。尾張浅井家と近江浅井家の関係については諸説あるけれど、この頃には親戚…というか、同族という意識があったと思っていいのかな。

posted at 18:22:13

三好直政。この一家は茶々姫のもとにいたのだけれど、父政高は大坂の陣で戦死。母海津局と子直政は、千姫に付けられて督のもとへ走り、お咎めなし。海津局の妹饗庭局は茶々姫の側近の一人で、母子のお咎めがなかったのは明らかに督・千の尽力の賜物でしょう。

posted at 18:24:35

直政はその後寛永三年に家光に仕え、その際督のが移籍を憚り浅井の姓を棄てて三好の姓を名乗ります。しかし督の最期には近臣として江戸に召されています。妻は大坂の陣で大坂方として活躍した明石全登の娘。自分を保護してくれた督への感謝は深かったでしょうね。

posted at 18:27:44

で、その直政の嫡男が政盛。家光の周りは春日局の息のかかったもので固めていたと言われていますが、この子は幼いころより海津局に育てられ、大奥にも上がっていたことから督も可愛がっていたでしょう。そんな彼は七歳の時、家光の小姓として仕えています。家光の側に督に近しい者もいたんです。

posted at 18:31:00

木下利房。父家定が亡くなった時の遺領相続の際、兄勝俊と折半すべき旨の幕府の意向を無視し、お寧が兄勝俊一人に継がせようとして、結局遺領が幕府に没収されたという一件の当事者です。

posted at 18:35:15

その利房の項には、大坂の冬の陣の際には家康に従軍し、夏の陣にも従軍しようとしたけれど、お寧を大坂城に来させないようにしろと命じられ、京にてお寧を「守る」役目にあったそうです。冬の陣でもお寧は大坂に駆けつけようとしたものの、鳥羽の関を越えることを許されませんでした。

posted at 18:37:26

このときは従来のお寧の評価から、「自主的にあきらめて帰った」とも言われますが、利房を使った対応を見ているとやはり、「鳥羽の関を越えることを許されなかった」のでしょうね。そして、夏の陣でも大坂に赴く可能性があった。しかし、利房に「守ら」れ、それは叶わなかった訳です。

posted at 18:39:15




やはり同時代浅井家関係を見ていると、督による庇護が目立ちますね。
特に海津局・明政母子は、縁故や立場からいって、大坂残党として罰せられてもおかしくない立場だったことが分かります。

あと、『寛政重修諸家譜』が編纂された時点では、まだ寧に親家康というイメージはあまりなかったことが分かります。

「督と豊臣家の関係について考える」で考察したとおり、やはりお寧が秀忠と文や物を交わしたり、徳川家に敬われたのは「督の養母」としての立場からだったのでしょう。
…という思いを当該記事に頂いたコメントから強くしました。
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プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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