基本的に「豊臣家滅んだのは秀吉の因果応報!」というスタンスなんですが、細かく見ていくといろいろと面白い。
まだ茶々姫関係しかチェックしていないので、そのうちじっくり読んでみたいです。
特に、秀頼の評価がなんかめっちゃ高いですね。
あと、茶々姫の秀頼に対する態度の変化が伺えて勉強になりました。
日本切支丹宗門史 上巻 (岩波文庫 青 433-1) レオン・パジェス 吉田 小五郎 岩波書店 1991-11 by G-Tools |
【宗門史】慶長九年の豊臣家。(秀頼が)渾天儀について僧侶に聞いたが、納得いく答えが得られなかったので、宣教師に説明を求め満足したという。ときに数えて十二歳。満10~11歳なので、小学四年生。すご…
posted at 20:11:00
【宗門史】慶長十一年、朽木宣綱室京極氏(秀隣寺殿)葬儀のシーン。「秀頼公の母政所様(茶々姫の意)は、狂人じみた異教徒で…」…ひどい言われようだ(涙)
posted at 20:17:44
【宗門史】「彼(家康)もこのプリンセス(=「夫人」。茶々姫)に遠慮して大坂の城壁に、漠然たる言葉で記され、必ず実行されることのない命令を張りだした。」…いろいろと突っ込みたい文章。
posted at 20:19:07
【宗門史】「(太閤)殿下は、多くの人が命令に背いてバテレン教徒となったことを知り大変不快であった。家臣やその夫人・家人は殿下の命令を守るべきであるし、下人にまでそれを徹底し、バテレン教徒は棄教すべきである」要約するとこんな感じ。慶長十一年四月二十日付で発令。
posted at 20:23:56
【宗門史】慶長十二年秋頃?秀頼と茶々姫、片桐且元の仲立ちでパエスの用意した伝道士の歌と器楽演奏を楽しむ。秀頼はこのような文化的交流によって、大坂のキリシタンに寛容であったと記す。
posted at 20:32:23
【宗門史】慶長十八年時点で、大坂の駐在所・天主堂は秀頼と茶々姫の庇護下にあったと記されています。最初は秀頼後見として秀吉の遺志を固く守っていたけれど、秀頼の成長に従ってその意思を尊重している、そんなふうに感じます。
posted at 20:43:16
【宗門史】大坂の陣に至る筋書きはいろいろ戸惑う。家康が市正を誑かし、秀頼・茶々姫を梵鐘供養の儀式に呼び出し、その場で秀頼をとらえようとしていたが、秀頼は既に人から危機を知らされ、儀式出席を断った…という筋書き。その後もいろいろと突っ込みたい。
posted at 20:56:32
【宗門史】『宗門史』の伝える国松の最期。「この不敵な小児は、最後に臨んでないふ様の太閤様と秀頼に対する背信の罪を責め、勇ましく首を劊手に差延べたといふ事である。」
posted at 20:59:57
個人的に、「プリンセス」=茶々姫がヒットでした。
訳では「夫人」とされていましたが、「姫」なんだ…!
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