ようやく読むことができました。
高野山は一度参拝したことがあるのですが、墓域は本当に広大で、「豊公墓域」にも辿りつけませんでした…
ぜひもう一度伺い、逆修碑や供養塔に手を合わせたいです。
①茶々姫逆修碑・鶴松供養塔
『和歌山県史跡名勝天然記念物調査会報告』第二輯(大正十二年)に、「豊公墓域」内に鶴松の供養塔と茶々姫の逆修碑(伝)があることが報告されています。
鶴松の供養塔には「玉巌麟公神童 天正廿年二月時正 浅野弾正少弼造之」とあり、
茶々姫の逆修碑といわれている石塔には「天正十七年七月三日 御上臈逆修」と書かれてあるそうです。
この両塔は現在も確認できるそうです。
②秀頼・茶々姫供養塔
高野山に秀頼・茶々姫の供養塔が存在することは知らなかったのですが、この論文では主にこの供養塔についての調査報告となっています。
秀頼・茶々姫の供養塔がそれぞれ左右にならんでいるそうですが、現在でも確認できるのでしょうか。
秀頼塔には
御取次筑波山知足院
嵩陽寺殿秀山大居士尊儀
慶長弐十□□年五月七日
茶々姫塔には
御取次筑波山知足院
大虞院殿英岩大禅定尼尊(儀)
慶長弐十□□年五月七日
と陰刻されているそうです。
ところで、この供養塔を建立したのは一体誰なのでしょうか。
そのヒントとなるのが、取次をしたという「筑波山知足院」。この寺院は現在の茨城県にあり、徳川家康の時代から特に家光に盛んに整備されたのだそうです。
まさか家康や秀忠が自ら供養塔の建立を命じたとは思えませんし、何より亡くなった日が「五月八日」でなく「五月七日」となっている辺り、戦場に立ち詳しい報告を受けていた人物とは思えません。
徳川家の中心人物で、茶々姫や秀頼の供養を行えた人物…やはり、私は督(江)ではないかと思うのですがいかがでしょうか。
この供養塔は、論文から「豊公墓域」付近にあることが伺えるのですが、その場所に二人の供養塔を作れた人物は、死ぬまで豊臣家の養女であった督以外にいないように思います。
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