(2010/12/20)
『歴史人』で楠戸氏の撮影されたお督の位牌(養源院)の写真が掲載されていましたが、豊臣の桐紋が入っているのを見て、やはりお督は徳川へ輿入れの時に形だけ秀吉の養女となっただけではなく、亡くなるまで豊臣出身の女性としても敬われていたのだなあ、と思いました。
posted at 01:05:13
ここからは想像ですが、徳川がお寧さんを敬ったのも、秀忠室であるお督の養母という立場を重んじたという面もあったのかな…?もちろんお寧さんとお督が養母娘の関係を結んでいたかどうかは確証ありませんが…。豊臣と徳川の関係を考える上で、お督って結構重要人物ではないだろうか…
posted at 01:08:37
しかし豊国神社や祥雲禅寺はお寧さんの抗議も梵舜の頑張りも虚しく、大坂落城後容赦なく破却されているという事実…。茶々姫が建立した養源院が同じ運命をたどらなかったのは、これはお督(江)が頑張った結果だろうな…。お督にとって鶴松は甥っこだから、祥雲禅寺も守ろうとしたのではないだろうか…
posted at 01:13:01
…というか、お督(江)は秀頼の生誕からかわいい盛りまで完子の成長とともに見守っているはずだから、姉茶々姫だけではなく秀頼に対しても思い入れがあったのかもしれないなあ…。でも、お督が動いていたとしても、まずその記録なんて残るはずないか…。うう、いろいろ想像がとまらなくなってきた…!
posted at 01:15:47
このつぶやきをきっかけに、督のことについて真剣に考えるようになりました。
督の「豊臣家の養女」という肩書は、今日のその印象の薄さを思えば、徳川将軍家にとって決して誇るべきものではなかったのでしょう(秀吉は義兄として描かれることが多いですね)。
つぶやきにも挙げている豊国社や祥雲禅寺同様、豊臣家の痕跡を消し去りたかったのだとしたら、むしろ邪魔なものだったのかもしれません。
それでも、位牌に残るほど最期まで督が豊臣家縁の女性として認識されていたのは、なにより彼女がそれを意識して生きていたからだと私は思います。
初が大坂の陣で使者として奔走できたのも、家康の意向とありますが、なにより一番は初の意思でしょう。そして、督の意思だと思います。
初が出家の身だったために、京極家に迷惑をかけずに行動できたともいわれますが、前田家の松(芳春院)、千代保(寿福院)は家の代表として江戸へ人質に行っていますし、なにより豊臣家の寧(高台院)は出家してなお政治の世界に影響力があったといいます。
出家=家に影響を及ぼさないというのは、疑問に思います。
初の意思に、督の尽力(意思)で家康の許可を取り付け、また将軍御台所の後ろ盾という大義名分あったればこその初の行動力・行跡だと私は考えています。
督が、徳川に嫁いでから、自分の人生を翻弄した豊臣を恨み、姉と対立したというのはとんでもない誤解であるというのは間違いないでしょう。姉を無視していた、もしくはあきらめていたというのも正しくないと思います。
督ほど立場も身分もある女性が、ここまで記録や消息が残されていないということは、残されていない何らかの理由があるのでしょう。
私は、督は考えられているよりももっと積極的に行動していたと考えていますし、その結果が督に関する史料の少なさだと考えています。
将軍御台所として、新しく一宇を建立する力が十二分にあったはずの督が、あえて茶々姫の建立した養源院を再建した事実はもっと重く見られてもよいと思います。
それは秀忠の妻としてではない彼女自身の権力、影響力が確かにあった証拠であり、失ってなお姉を業績を誰より知り慕っている証拠ではないでしょうか。
(前回の記事で取り上げた高野山の供養塔もそうですね)
『歴史街道』の植松三十里先生の記事は、そういう側面から督のありえただろう活躍を書かれています。未読の方はぜひ!
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