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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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家光・東福門院和子と督(江)の母子関係

 

追記追記ばかりでキリがないので、新しく記事にしたいと思います。


1/3に長浜城の展示説明会に行ってきたのですが、そこで『江の生涯』が大きく取り上げられました。

江の生涯―徳川将軍家御台所の役割 (中公新書)江の生涯―徳川将軍家御台所の役割 (中公新書)
福田 千鶴

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大量に出版されている大河関連本の中で、唯一の督(江)研究本として太田先生に大いにPUSHされておりました。

だけれど、すべての論点に首肯することは出来ない、と。


わかります。私もそんな感じです。

めちゃめちゃすごい本だと思っているけれど、腑に落ちないところも結構ある。荒削り、というのでしょうか。

それもそのはず、督で研究本を出された人が他にいないのですから、さらに論が磨かれるのはこれからですよね。


というわけで、太田先生も何個か福田先生の説に異論を発表されていました。私の感想・意見も。


≫家光と督の母子関係

①神宮徴古館蔵 茶々姫消息(慶光院宛)

福田先生も家光の項で取り上げられていたのですが、茶々姫の慶光院宛音信。

福田先生は、もし家光が督の実子であれば、家光のことだけでなく、督も無事ですという旨を書いていなければ不自然だと家光が庶出子である論拠にしておられました。


太田先生は逆に、家光が督の子どもでなければ、茶々姫は話題にしなかっただろう、と。

誕生日も福田説の1月ではなく、やはり7月17日が正しいのではないかとおっしゃられていました。7月17日に誕生し、それを知らせる飛脚が江戸から大坂へ飛び、茶々姫が7月26日に慶光院へ最新情報を伝える、というのがとても自然な流れではないかと。

なるほど、確かに大事な妹である督に関わることでなければ、茶々姫がそれを慶光院に喜び報告するのは不自然ですね。


そしてこの件から分かることは、茶々姫と督は決して音信不通になっていなかったということ。

茶々姫も督も、自筆の消息はほとんど残っていませんが、お互いの近況を伝えあったいたことが偲ばれます。


②東京神田東福寺薬師堂(『麻布本村東福寺薬師縁起』)

そして、家光の誕生に際して督が東福寺薬師堂を造営した件も紹介されました。

督が家光を懐胎中に「無事生まれたならば薬師堂(本堂)を作るように」という霊夢を見、実際無事に生まれたために薬師堂を造営したという一件です。


またその直後、生まれたばかりの家光の名前で慶長十年四月、同東福寺へ十二神将が寄進されていますが、これも家光の名前で督が用意したのだろうということでした。

茶々姫が幼い秀頼の名前で寺社を修築していることを彷彿させますね。実際督は姉に倣ったのかもしれません。


≫和子と督の母子関係

③栄昌院蔵 江消息(常高院宛)

これは別件で取り上げられていたのですが、内容が関連するかなと思ったので。

常高院こと初が和子へ使者・小少将を遣わせ、それに対して和子が機嫌よく親切に対応し、初に小袖を送ったという旨がこの消息に書かれています。

前回の記事で、和子が初の体調不良に見舞いの使者を送ったことを取り上げましたが、京極家の後家である初がわざわざ和子へ使者を遣わし、また初の不調に対しわざわざ和子が使者を遣わして見舞うというのは、やはり初と和子との伯母姪関係があったからでしょう。


そして、この手紙ではかなり頻繁に督と初が手紙をやり取りしていたことが分かります。

きっと、茶々姫と督は本人同士でも音信を送りあっていたのでしょうけれど、時には初を挟んでお互いの近況を伝えてもらっていたのかもしれません。


督は大坂の陣で茶々姫のために何もしていないといわれていますが(正しくは動きが分かるものが何も残っていない、ですが…)、私は初が大坂城に駆け付けたのは、本人の意思はもちろん、督の意思も大きかったのではないかと思っています。

俗世を離れた法体であったから、京極家の存亡に関わらず大坂方の使者を務められたといわれますが、御台所督の意向を受けた使者であったからという面もあったのではないでしょうか。

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Comment

1. 私は

まず大阪と関東の連絡を取り合うのは本当に難しかったと思うしどこかで、捨てられてたかもと考えてます。だって、結局は、豊臣を残す気は無かったんだろうしね。

もし、茶々姫が先を見越して、最終的な道を選ぶしかなかったら、妹達を巻き込まないように、浅井の血を守るためにも、逆に妹達に背を向け、自ら連絡を絶ち、秀頼といかれたんだと思います。

だから、あの浅井の弁天像を江に渡るようにしたんだと思うのよ
憎しみあってた姉妹に、こんな事は出来ないよと思って、こないだテレビを見てました。

2011.01.04 | やぎっち[URL] | Edit

2. 慶光院宛音信

紀伊様
①の点に関して、私も太田先生と全く同じ事を考えていました。
さらに言えば、福田先生は、ここで江の状況に触れないのは、実子で無いからだ、としていますが、ゑと様が江の事を意味するのであれば、「“ゑとにも”わもしをする/\と」と記すだけで、「母子ともに息災」を表している、と受け取って良いと思います。
家康とほぼ同時に誕生の情報が届いている事から見ても、江の実子だから、江の姉にj早々に報せが届いたものと思います。
こうしたことから、私は、むしろこの文書の存在こそ、家光が江の実子である証拠になる、と考えます。

2011.01.05 | 武江[URL] | Edit

3. Re:私は

>やぎっちさん

コメントありがとうございます。

徹底的に豊臣の痕跡を払拭しようとしていた大坂の陣以降ならば、交流の痕跡を処分されるということはあったのではないかと思います。
また、大坂の陣まっただ中ならば交流の手段がない、もしくはあえて交流しないといったこともあったかもしれません。

ただ、秀吉の死後から茶々姫の死まで17年、ずっと徳川家との関係が悪化の一途をたどっていたかというと、そうではないと考えています。
茶々姫とお寧さんの関係同様、家同士の関係も時勢によって流動的なものであったはずです。
もしもずっと徳川と豊臣の関係が悪かったのならば、旧豊臣の家臣はおとなしく家康に従うものばかりではなかったでしょう。また、茶々姫も秀忠の跡継が誕生したことを喜ばなかったでしょうし、また知ることもなかったのではないでしょうか。
そして、茶々姫は幼い千を教育し、後見していますが、千にも徳川からたくさんの侍女や家臣を引き連れて大坂に輿入れしています。
ここでも、もしも徳川と豊臣の関係が悪化の一途をたどっていたならば、いかに城主の母といえども、彼らに阻まれて茶々姫が千に関わることも出来なかったでしょう。

少しずつ豊臣から徳川に傾いていく世の中を、茶々姫は豊臣で、督は徳川で見つめていたのだと思うと、切ないものがあります。
そんな中で、あの弁天様は督の手に渡っていったのですね。

2011.01.05 | 紀伊@赤石いとこ[URL] | Edit

4. Re:慶光院宛音信

>武江さん

コメントありがとうございます。

武江さんのコメントを拝読しながら考えていたのですが、「ゑと」というのは場所としての「江戸」かもしれませんが、ひょっとすると福田先生が明らかにされた「江与」こと督を指すのかもしれませんね。
徳川では若君が誕生し…というだけではなく、どちらかというと私の妹に若君が誕生し…というニュアンスも含まれた手紙だったのかも、と考えていました。

確かに、茶々姫のこの手紙を見ていると家光は間違いなく督の子どもなのだと思えます。

2011.01.05 | 紀伊@赤石いとこ[URL] | Edit

5. 願望ですね(^-^)

もう独り言みたいな世界だから、あまりコメント出来ないけど(笑)自分のレベルの低さに恥ずかしくなりますが、読みに来てます(笑)知りたいような知りたくないような不思議な感じです

2011.01.05 | やぎっち[URL] | Edit

6. Re:願望ですね(^-^)

>やぎっちさん

分かります。
私も、思っていたのとは違う真相に驚くことも少なくありません。これからも同じだと思います。
ただ、知れば知るほど茶々姫というお方の奥深さに驚き、またさらに惹かれていくことには変わりありません…

せっかくのやぎっちさんの茶々姫像を壊してしまったのなら申し訳ありません。
私は思い込みが激しいので、つい口が過ぎることが…悪意はありませんので、どうかご容赦くださいませ。

2011.01.06 | 紀伊@赤石いとこ[URL] | Edit

7. いやいや…

>紀伊@赤石いとこさん

気を悪くするどころか、茶々様を、どんどん好きになっております姫が生きてた時代を、こんなに知ってしまっていいものかと言う程に、毎回、ドキドキしてます(笑)それでも、姫の生き方に憧れます。

私のレベルの低い質問にも、完璧に答えてくれるし、凄い嬉しいし、凄い楽しみなんです。

でも、本当に辛かっただろうなぁ、って事も、いっぱい、改めて読まないといけない所は、いとこさん、辛いですよね

わかっていても、辛いですよね。

大河も楽しみながら、また落城しちゃうのかぁ…と、少し暗い気持ちにもなります。変かな(笑)

2011.01.06 | やぎっち[URL] | Edit

8. Re:いやいや…

>やぎっちさん

ありがとうございます。
そう言っていただけると、うれしいです。

そうですね…やっぱり大坂の陣前後はどの史料読んでもどきどきするし、はらはらするし、イライラもします^^;

茶々姫はラストが変えようがないですものね…
元景寺の伝説もありますが、やっぱり茶々姫はあそこで亡くなったのだと思います。

一緒に、大河の落城を乗り越えましょう(苦笑)

2011.01.06 | 紀伊@赤石いとこ[URL] | Edit

9. 江の話なのに(笑)

>紀伊@赤石いとこさん

茶々様ばかり(笑)うんうん、乗り越えましょう。深キョンの時は、凄い本当に強くて優しくて、千姫が泣き叫んでくれたから、良い最後だった

酷いと、語りで終わる時があるけど(笑)そっちの方が良いときもありますよね。読んでらんない時もあるし

秀吉様、茶々様を愛してくれていたんだから、何か凄い証拠を出して下さい茶々様の誤解がとけますように。では、おやすみなさい

2011.01.07 | やぎっち[URL] | Edit

10. Re:江の話なのに(笑)

>やぎっちさん

天地人、まだ観てないんですよねえ~;ぜひ見なければ!

おやすみなさいませ^^

2011.01.07 | 紀伊@赤石いとこ[URL] | Edit

11. あぁ~忘れて(笑)

>紀伊@赤石いとこさん

見たら語り合いましょう。最初の方は深キョンでも、最後は茶々様だったよカッコ良かった

2011.01.07 | やぎっち[URL] | Edit

12. 上人号

紀伊様
先日、江戸東京博物館に行って参りました。
茶々の慶光院宛消息も実物を見る事が出来ました。「わもしをする/\と」の文字部分は、経年により、かなりかすれて読みづらくなっていましたが。
この時の宛先は慶光院4代の周養だった様ですが、展覧会には、春日の局を通して、家光と東福門院の間の仲介をしていたらしい5代周清の、没後に描かれた肖像画が出品されています。その讃の部分に「前慶光院殿“特賜”明隠周清上人遺像」と、描かれた人物の追号が有りましたが、これで思い出したのが、和子の「実母」の高い身分を表すという「勅特賜」妙徳院殿広次上人の号です。
そこで、調べてみた所、ウィキペディア情報ではありますが、室町以降、上人号は、天皇の綸旨により授けられるものとの事。特に和子の実母だから上人号を得られた、と言う事も無いはずで、綸旨により上人号を授けられた妙徳院の位牌に「勅特賜」とあるのは、当然の事のようですので、妙徳院が和子の母親だという可能性は、ほとんど無いと考えて良いように思います。
しかし、和子が、周清・春日の局を通して、家光に金子の用立てを依頼する消息は、少しショックでした(笑)。

2011.01.19 | 武江[URL] | Edit

    
プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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