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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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養源院の肖像画

 


茶々姫をたどる汐路にて

(冠雪の長浜城)


本日、長浜城歴史博物館の研修室で行われた展示説明会「崇源院(江)の生涯と肖像画について」に行ってまいりました。


大河に関連してたくさんの関連書籍が出版されており、そのどれもに養源院の肖像画が督のものとして使われています。ここでは何度か書いているのですが、あの肖像画の像主が間違いなく督かどうかは実ははっきりとわかっていません。


徳川秀忠室[浅井氏]画像(伝):模写


肖像画の表具に墨書が貼ってあり、そこに「崇源院殿像歟未詳」、つまり「督の像かもしれないけれどようわからん」と書いてあり、それがこの像が督のものであるという根拠になっています。

同じく墨書が書かれた日にちと書名も添付してあり、そこには「寛政十一己未八月 僧正亮天修補之」と書かれてあります。

これについては、「江戸時代に督のものであるという説がすでにあった」という解釈をされている場合もありますが、逆に言うとすでに寛政十一(1799)年にはこの肖像画が督のものかよくわからなくなっていたということでもあります。


この像主は法体で描かれていますが、普通当時の女性の肖像画は、夫に先立たれていた方は出家した姿が多く、それ以外は俗体で描かれることが多いそうです。

督はご存じの通り、夫秀忠よりも早くに亡くなっています。

供養像としてつくられたのだから、法体でもおかしくないという見解もあるそうですが、実際三の丸殿(豊臣秀吉のち二条昭実室)やお犬の方などは供養像として制作されていても、やはり俗体で描かれています。

実は、養源院には督のものと同年同月、同じ亮天僧正に書かれた墨書のある肖像画がもう一幅あります。

それが、「伝淀殿像」とは別にもう一幅あるとされる茶々姫の肖像画です。


淀君[浅井氏]画像(伝):模写


この肖像画の墨書には、「浅井長政卿室之像歟未詳 寛政十一未年八月 僧正亮天修補之」と書かれてあります。先ほどと同じように解釈すれば、「市の像かもしれないけどようわからん」と書いてあるのです。


どうして前者がこの墨書で督のものであると理解されているのに、後者が市でなく茶々姫のものとされているのか、私にはどうしてもしっくりこないのです。

今日長浜城歴史博物館の太田先生にお伺いしたのですが、後者はお寺で茶々姫のものであると伝わってきたから市ではなく茶々姫のものとされているのでは、とのことでした。

しかし、督の肖像画も、一時は市のものとして長政の肖像画と並んで掛けられていた時期もあったのだとか。


なんで前者だけ墨書を信頼して、後者は墨書を無視してしまうのかどうしてもしっくりこないんです…


ちなみに、後者は俗体で描かれています。

持明院蔵の市の肖像画も俗体ですので、市としても違和感はありません。

茶々姫の像であれば、夫秀吉に先立たれていますので法体であるべきなのかというと、太田先生によると、茶々姫は秀頼養育のために出家が許されなかったのではないかとおっしゃっていました。

茶々姫は側室だったから俗体で描かれたのではないかという意見もありましたが、それは龍(松の丸殿)の肖像画が法体で描かれていますので、適当ではないでしょう。


何にしろ、謎と疑問の多い肖像画であることには間違いないのです…




(1/5 追記)


k2さんのブログですでに同じテーマで記事がありました。

いつものことながら、本文、コメント欄ともにとても勉強になります。


崇源院画像/泰巖宗安記(k2さん)

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Comment

1. いつも参考になります!

昨日大河の特別展に行き、水を得た魚のように館内を動きまわっていました。
「そうしんさま」
の手紙もありました。


江姫は目から鱗です(^_^;)
確かに江姫像は剃髪した姿なんですよね。
よく考えればおかしい。
名前も生年も肖像画すらも正確にはわからない、だから余計みせられるのかもしれません。
淀姫のかすれた方の画像はなかなかネットでも見つかりません。
とても貴重です。


朝、忠長と和子姫の事を考えていましたが、
大胆な話で申し訳ないんですが、双子……なんて可能性はありますでしょうか。
凄い勝手な想像である事は重々承知です(^_^;)

2011.01.03 | しなちくにゃんこ[URL] | Edit

2. Re:いつも参考になります!

>しなちくにゃんこさん

江戸東京博物館、いいですね!
私も来月くらいに東京に行けそうな気がするので、その時にぜひ伺おうと思っています^^
図録も買わなきゃ!ですね。
福井も長浜もなんとか都合をつけてのぞこうと思っています。楽しみです♪

養源院には東に「かけじの間」というところがあり、そこでずっと大切に所蔵の掛け軸を飾っておられたそうです。
ですが、やはりずっと掛けておくと劣化が激しく、現在養源院所蔵の肖像画の状態が残念なのはこのためだとか。

あとは、K田忠T先生が養源院所蔵の茶々姫像(今回後者であげたものです)の容姿をこき下ろしたために、お寺の方がご不快に思われてあまり外に出さなくなったとかなんとか。聞きかじった情報ですが。

東京大学史料編纂所データベースにいろんな人の肖像画もありますのでよろしければ。

忠長と和子のことですね。
双子…にしては、伝わる誕生日が違いすぎているように思います。
あと、忠輝・秀康など双子説がある方たちはどこかにそういう話が残っているものなのですが、この二人にそういう話があったことは聞いたことがありません。
忠長も和子も名の通った存在ですので、そういうことがあればどこかに残ると思います。
そもそも、二人とも普通に生まれても、そんなに重大な問題になるほどの間隔ではないと私は思うのですが…

2011.01.04 | 紀伊@赤石いとこ[URL] | Edit

3. 了解(`▽´ゞ

ありがとうございます(^人^)
ただ単に記事を読んでいてふっと、
「そういえば、戦国時代(そもそも日本の歴史)の中に双子って聞いた事ないぞ。
ひと組くらいいたっていいのでは」
という安直な考えから出て来たものです(^_^;)

是非東京、楽しんで下さいね!
ついついどれが本物でどれが複製なのか疑ってかかってしまいましたが、どれも素晴らしい展示品です(^_^;)
もしお暇なら、東京スカイツリーも探して見て下さいね(まだ中に入れませんけど)。

2011.01.04 | しなちくにゃんこ[URL] | Edit

4. Re:了解(`▽´ゞ

>しなちくにゃんこさん

いえいえ、こちらこそありがとうございます。
戦国時代も双子はいたでしょうね。
家康の子どもに二組も双子説があるということは、家康の親族には双子が何組かいたかもしれません。

スカイツリーまだ見たことがないので楽しみです!
何より電車が苦手なので、電車と人ごみにいまから恐れおののいているのですが…(苦笑

2011.01.04 | 紀伊@赤石いとこ[URL] | Edit

5. 無題

紀伊様
こちらでも取り上げた事があります。
結論は出てませんが。織田木瓜と五七桐と見られる紋がみれるので、江か市なんでしょうが、どちらも頭巾が相応しくないんですよね。
 万福丸の画像ですが、肩衣が交差してないところを見ると、関ヶ原以降江戸期の成立だと感じるのですが、こちらもよく分かりませんね。
一度実見してみたいものです。

2011.01.04 | k2[URL] | Edit

6. Re:無題

>k2さん

コメントありがとうございます。
なるほど、紋ですか…織田と豊臣に縁の女性で、法体でもおかしくない存在…
法体でなければ、督で問題ないと思うのですが…

私はやはり後者が市ではないかと思います。
まさかどちらも市ということはありうるのでしょうか…

万福丸についても、勉強になります。
ということは、小坂坊が秀頼に再興された慶長十一年が今のところ固そうですね…

よく弟に突っ込まれるのですが、わたしは紋などにとても疎くて、お恥ずかしい限りです。
肩衣のことなど、もっと勉強しなければいけませんね。

>一度実見してみたいものです。
同じくです。

2011.01.04 | 紀伊@赤石いとこ[URL] | Edit

7. Re:無題

>k2さん

改めて読みなおしました。
いつもながら大変勉強になります。

せっかくなので、追記という形ですがご紹介させてくださいませ。

某様の肖像がごちゃごちゃになった理由に、そういうこともあろうと、とても納得しております。

2011.01.06 | 紀伊@赤石いとこ[URL] | Edit

8. 西洋版淀殿

こんばんわ。
いつも楽しく拝見させていただいています。

私は今まで、淀殿の肖像画といわれているものは、養源院にあるものと、奈良県立美術館に所蔵されているこの二つだけだと思っていました。


しかし、先だって小林千草著「淀殿 戦国を終焉させた女」を読んでいて、狩野内膳筆「南蛮屏風」(神戸市立博物館蔵)の中に描かれている女人が淀殿と想定される、ということが書かれており、驚きました。一見、すらっとした鼻の形などが、奈良にある肖像画と似ていると私は思ってしまったのですが・・・・。
しかし、引っ掛かったのが頭に着けている桜色の頭巾(らしきもの)。
これは、江の肖像画に描かれている、江が頭に着いているものと共通するものなのでしょうか。
(でも、布の間から髪がみえるんですよね・・・。)

あと、小林氏は著本の中で、「狩野内膳(一五七0~一六一六)は、豊臣家お抱え絵師として淀殿にもまみえることがあり、」と書いているのですが、大阪城の御奥は、男子禁制で入れる人も限られていたと思うのですが、絵師は入ってきてもよかったのでしょうか。

2011.08.09 | 秋草[URL] | Edit

9. Re:西洋版淀殿

>秋草さん

私も西洋版茶々の画像は大変驚きました。
「父子像が秀吉・秀頼に酷似しているのに対し、淀殿像が”より美しく”描かれている気がしないでもない」
との記述がありましたが、秀吉と確定している肖像画と、秀頼と確定している肖像画を西洋版画像と比べて酷似していたということは、この西洋版絵画の登場人物は等しく忠実に描かれていると考えたほうが自然ではないでしょうか。
なまじか、「茶々姫のもの」と伝わる不確かな肖像がいくつかあるために「より美化した」などと評価されてしまっているようですが、私はこれが茶々ならば、どの肖像よりも信頼できる姿だと思いました。

あと、頭巾ですが、これは江の肖像画?のものとは性格を異にするものであると思います。
西洋版絵画の舞台が南蛮の教会風の建物を舞台としていることから、茶々は江のように出家を示す被きではなく、スカーフ的な洋装のひとつ、もしくは旅装(衣裳被き)の名残りのようにも思えます。

大坂城奥御殿ですが、城主である秀吉か秀頼の同伴だったら男性も入れたようです。
秀吉あたりが狩野内膳を連れて奥御殿に入り、その時に秀吉の許しを得て茶々を垣間見ることはあったかもしれませんね。

2011.08.14 | 紀伊@赤石いとこ[URL] | Edit

10. もしや・・・

ご教授ありがとうございます。

これを機に狩野内膳について調べて見たのですが、その時「もしや・・・。」と思ったことがあります。
狩野内膳の代表作に「豊国祭礼図屏風」というものがあります。これは、慶長九年(一六0四)の秀吉の七回忌の臨時祭を描いたもので、秀頼が内膳に描かせて、慶長十一年(一六0六)に豊国神社に奉納しました。
この屏風をみて、もしかしたら、この屏風の中にも淀殿が描かれているのではないか、と思ってしまいました。もし内膳が秀吉の許可を得て、淀殿を垣間見る機会があったならば、秀頼が命じて秀吉の七回忌を描かせた屏風に、母子の姿を組み入れた可能性もあるのでは・・・・、と思います。
しかし、実際には淀殿と秀頼は臨時祭を見に行ったのでしょうか。
勝手な想像を語ってしまい、すみません。

2011.08.15 | 秋草[URL] | Edit

11. Re:もしや・・・

>秋草さん

慶長九年の七回忌には茶々と秀頼は残念ながら豊国祭に参加していません。
「秀頼が成人するまでは大坂城を出すな」という秀吉の遺言があったことが大きな要因だと考えています。

ですが、狩野内膳が母子を描き込んでいたとしたらとても興味深いですね。秀頼が書かせたものなら尚更です。
父を慕う秀頼の姿を描いていたとしたら、ぜひ私も探してみたいです。

2011.08.23 | 紀伊@赤石いとこ[URL] | Edit

    
プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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