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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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万福丸の肖像画?

 
k2さんのブログで教えていただいた(いつもありがとうございます!)『肖像画の視線―源頼朝像から浮世絵まで』という本についてのつぶやきです。

肖像画の視線―源頼朝像から浮世絵まで 肖像画の視線―源頼朝像から浮世絵まで
宮島 新一

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(2010/11/24)

教えていただいた宮島新一氏の『肖像画の視線』見ました。大徳寺大慈院にある子持ち三亀甲文の童子像は万福丸のものか…と推測されていました。大徳寺と浅井家は直接的な関係がないそうで、什物の移動により大徳寺にあるものかとのことです。

posted at 21:57:55

もしそうだとしたら、持明院の長政夫妻像…厳密にはお市像は後年という説もありますが、それらと同時に収められたものが大徳寺に流れたのでしょうか。天正十七年の追善供養か、文禄三年五月の養源院建立にともなって描かれたものか、というところかな…

posted at 22:04:00




持明院蔵の市の肖像画については、市のものだけ賛がないため、同時に描かれたのではないのでは?という説があります。同時に描かれたにしろ、後に描かれたにしろ、長政のものと対になるように描かれているのは間違いないでしょう。

(市の肖像画作成の時期について)
①天正十七年…長政十七回忌、市の七回忌にあわせ同時に制作(鶴松誕生後の供養の際に制作か)
②文禄四年 …市の十三回忌(この年勝家の追善供養あり、同時に制作か)
③慶長四年 …市の十七回忌(長政の肖像が十七回忌につくられたことにあわせた制作か)
④慶長十一年 …この年、浅井家の菩提寺高野山小坂坊が秀吉の名で再興されたことにあわせた制作か

ただ、文禄四年であれば、このとき勝家の供養記事は残っているのですが、市の供養記録が残っていないんですよね…市のだけが残されていないというのも不自然なので、②は弱いかな。


茶々姫をたどる汐路にて

童子像と比べてみました。長政・市夫妻の肖像に構成が似ていなくも…ない?
白黒画像での収録なので、カラーで見てみたいですね。
万福丸の肖像であり、小坂坊に収められたものであるならばこれは天正十七年か慶長十一年制作のどちらかでしょう。

あと、元和八年に「正栄尼(横井氏)」が大徳寺大源庵を建立したことが記されていますが、この正栄尼は茶々姫侍女の正栄尼(渡辺糺の母)とは別人…ですよね?
そういえば、桑田忠親氏の『淀君』でも正栄尼が茶々姫の妹?というふうに読み取れる文章があり悩んだことがありました。
「北の政所は、この珍花を得たことを喜び、淀君やその妹君・正栄尼などを招いて…」というくだりです。これは、妹(初or督)+正栄尼という意味でしょうか。
こちらの正栄尼(横井氏)も浅井氏の出身だとのことでしたので、若干混乱。
正栄尼は大坂の陣で慶長二十年五月七日に糺とともに亡くなっているはずだし…

今回はまとめが長くなりました。

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プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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