永禄十二(1569)年を更新しました。井上説では茶々姫の生年にあたります。
井上安代氏の説(「星座から推定した淀殿の年齢」〔『豊臣秀頼』、1992〕)では、『義演准后日記』にある茶々姫の「有気」の記事から従来の永禄十年出生ではなく、永禄十二年出生であると推論されたことは割とよく知られていることですが、これは井上氏が小和田説である「市が長政に嫁いだ時期を永禄十~十一年とする」説に賛同されているという前提があることはあまり注目されていないように思います。
先日出版された楠戸義昭氏の『お江 将軍家光と皇后の母となった戦国の姫』(静山社文庫、2010)では、まさにここを追及され、実は従来から採用されていた永禄十(1567)年やその前年永禄九(1566)年生まれでも、「有気」の記事が成り立つことを指摘されました。
果たして、茶々姫の生年については白紙に戻されたのでしょうか?
今回の更新では改めてそのあたりを私なりにですが検討してみました。
なにぶん史料が少ないことですので、今回は憶測が多いですが、ご容赦くださいませ。
そのヒントとなったのが、督と佐治一成の婚姻は信長の意思だったのでは、という説です。
信長は、生前に三姉妹の将来を考えていたのではないでしょうか。
市が娘たちを信長の野望の犠牲にするのを拒んだ、などという説も耳にしますが、いくら市の意思といえども信長の意向に逆らうのは限界があると考えるのが自然ですし、市自身、娘の将来を思わなかったとは思えません。
ここで、もし茶々姫が永禄十年の生まれならばどうでしょう。
本能寺の変があった天正十年には、茶々姫は数えで十六歳です。
この時代、十七歳が初婚でも少し遅いといわれます。
幼すぎるからと許嫁のまま母親の手元で置いておく年齢ではありません。
永禄九年生まれは言うまでもありません
もちろん、永禄十二年生まれでも天正十年時点で茶々姫は十四歳ですから、督が十二歳で嫁いだことなどを考えると(実際に嫁いでいないという説もありますが)、嫁ぐのに決して早くはありません。
それでも、永禄十年説や永禄九年説程の違和感は感じないように思います。
信長はすでに茶々姫の許嫁を用意しており、しかるべき時期に嫁がせようと考えていた。
しかし、茶々姫が十四の年に本能寺の変で信長は横死、市と柴田勝家に従って北庄城へ入ったものの、茶々姫が十五の年に北庄城は落城し、秀吉の保護下へ。
茶々姫を妻に迎えた秀吉ならばともかく、信長が茶々姫を嫁がさずにおく利点は見当たりません。
柴田勝家も織田信孝も、落ち着いたら信長の遺志通りに茶々姫の婚姻を調えてくれるつもりだったのかもしれません。
すぐに離縁させたとはいえ、督の婚姻を調えた秀吉も、ひょっとすると最初は信長の遺志を守るつもりだったのかもしれません。
しかし、結果的に秀吉は少なくとも二年は茶々姫を世間から隠し、誰にも嫁がせることはありませんでした。
その二年が縁切りのためだったのか、他に理由があったのか、それは分かりません。
本当にそんなことが史実にあったのかどうか、それを示す史料はどこにもありません。
ただ、やはり適齢期が天下分け目の激動期と重なってしまったと考える方が、戦国時代を生きた一人の女性の生涯として不自然が少ないように思うのです。
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