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『江の生涯』感想続きです。
この本で何より衝撃的なのが、督の所生と伝わる子どものうち何人かが実の子どもではない、とされているところでしょう。
正直、私は茶々姫と離れているときのお督(お江)については全く詳しくないのですが、その乏しい知識でも素直に納得しがたかったのが、この東福門院和子と督の母子関係です。
この著書で福田先生が取り上げられているのが
①和子の生母とされる「妙徳院」の記録(「一札控之事」)
②和子の出産時期が国松(忠長)を産んで間もないこと
③和子の入内に付き添ったのが督ではなく「母代」阿茶局であったこと
④督の七回忌に香典を送った記録が見られないこと
などを以て、お督は和子の実の母ではないという結論に結び付けておられます。
この説を受け入れるとするならば、腑に落ちない点がいくつかあるので、それを上げてみたいと思います。
①和子の周囲に使える浅井家縁の女房
和子入内に督自身が付き添いませんでしたが、和子のそばには少なくとも3人の浅井家縁の女性が女房として仕えています。
・対馬(浅井定政女)
・出羽(浅井清忠女)
・宰相(浅井長政家臣横山家次女)…若宮乳母
彼女たちが選ばれた背景には、やはり和子と浅井家の間に縁があったからでしょう。
さらに、家光の妻選びに督自身が関わったことを考えると、督が自らこの女性たちを選んで娘に従わせたのかもしれません。
②和子と雁金屋
以前茶々姫の衣装について取り上げた雁金屋ですが、ここの呉服屋の記録で際立って多いのが東福門院和子の衣装です。
雁金屋を経営する尾形家は浅井家縁の家とも言われ、茶々姫を始め初・督の三姉妹がお得意さまとなっていたことが有名です。三姉妹は自身の衣装を注文していたばかりではなく、夫や子どもの衣装もこの雁金屋に注文していました。
和子と雁金屋の関係も、やはり督を介して培われたものではないかと考えるのが自然ではないでしょうか。
③浅井長政中納言追贈
三姉妹の父浅井長政に中納言に追贈されたのが寛永九年九月十五日のことです。なお、『東武実録』ではこれが家光の執請によるものであるとありますので、少なくとも長政の追贈には家光の祖父として追贈を受けたようです。しかしそれだけではなく、長政が和子にとっても祖父であるという事実も影響していたのではないかと思われます。
④和子による徳勝寺での長政・督追善供養
徳勝寺の住職江峰の記録によると、寛文十二年春、長政百年忌に東福門院が督の位牌をおさめたという記録を残してました。同時に送られた銀五十枚で堂宇を造営し、法事をしたそうです。
わざわざ督の実家の菩提寺で追善供養を行うからには、やはり和子と督・浅井家との間に関わりがなかったとは言えないように思います。
④養源院蔵観音逗子 ~茶々姫と和子
養源院にある観音逗子は茶々姫の持仏であったと伝えられています。
今日まで残っているのは、この観音逗子が和子の手に渡り養源院に納められたものだからです。
大坂の戦火で焼かれることなく、また略奪されて縁もゆかりもないところから出てきたならともかく、これは茶々姫の生前に督を通じて、入内する際に和子の手に渡ったものではないかと考えられます。
⑤病気見舞い ~初と和子
寛永元年七月に、督の次姉、初が病を得た際、和子は初の見舞う為、使者を遣わしています(大内日記)。
宮中からわざわざ遣いをやっているのは、やはり母方の伯母だからこそでしょう。
(ちなみに、家光も初が亡くなった際、香典として銀千枚を送っています〔寛永日記・京極家譜〕)
⑤香典
私も七回忌の供養がなかったのではなく、残らなかったのでは、という方がしっくりくる気がします。
実際、他に和子による督の供養記事を当たってみますと、寛永十年九月十五日には、養源院に使いを出し、金子一枚を奉納し、焼香させたという記事が『大内日記』に見えます。
その他、あまのかるもさんが『徳川実紀』より寛永十九年の督十七回忌、慶安元年の督二十三回忌に和子から香銀が送られたという記録を指摘されているほか、k2さんのブログではコメントにて和子が養源院に督の塔婆碑を建立したという記録があることを指摘されています。
『江の生涯』の感想 その二(東福門院和子の母代) /かとりぶたを側に置き(あまのかるもさん)
…あまのかるもさんは、督についてとても詳しい方です。和子以外の子女についても詳しく検討されています。
『江の生涯』感想その二について追記/かとりぶたを側に置き(あまのかるもさん)
…該当事項についてあまのさんが改めて詳しく書かれていますので、ご紹介します(2011/01/02追記)
和子について、「妙徳院」の記録は存じていたのですが、上記の通りとても浅井に縁のない女性だとは思えませんでしたので、ずっと督の子どもだと思っていましたし、今でもやはりその方がしっくりきます。
和子を生むには年齢が…という話もありましたが、それにしたって高齢で出産した后妃や妻室を上げればきりがありませんし、なにより直前に忠長を生んでいるのならば、かえって和子だけ高齢だから…という理由は通らないように思います。
それでも、大河をきっかけに山ほど出版されている書籍の中でこれほど史料に忠実にお督を書いている本は他にないと思います。
これをきっかけに、さまざまな検討、時には批判が積み重ねられ、よりお督…そして未だまともに研究されたことのない女性たちの功績が明らかにされることを願ってやみません。
読んだ時から矛盾を感じてツイッターでいろいろ呟きつつ、いつかまとめて記事にしようとは思っていたのですが、今日になってしまいました…考えをまとめるというのはなかなか難しいものです。。
追記:和子の出産
別件で『徳川実紀』を読んでいたのですが、和子の出産の様子が思いのほか詳しく書かれていたので、追記したいと思います。
『徳川実紀』は十九世紀にまとめられたものですので一次史料ではないのですが、当時のいろいろな史料を集めたような編纂史料になっているようです。
和子の誕生についてはその父「台徳院殿御實紀 六」に記述があるのですが、そのお産にはかの有名な曲名瀬道三が付き添っていたらしいです。やはり、当時としては高齢出産ですから、万全を期したのでしょうか。
和子の前に生まれた国松の出産の際にも道三は付き添っていたようで、生後一週間後の国松の不調を『医学天正記』に記していることが福田先生の『江の生涯』で紹介されていました。
そして、このお産は「ことさら御なやみつよくわたらせ給ひし」とあり、難産であったことが記されています。それをよく治療・看病したということで道三は刀を賜ったようです。
周知の通り、督にとって和子が最後の子どもですが、それもこの出産が難産だったために、以降の出産を断念したように思えます。
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