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東福門院和子と督(江)の母子関係 ~「浅井家」との関わりに見る(『江の生涯』感想②)



江の生涯―徳川将軍家御台所の役割 (中公新書) 江の生涯―徳川将軍家御台所の役割 (中公新書)
福田 千鶴

中央公論新社 2010-11
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『江の生涯』感想続きです。

この本で何より衝撃的なのが、督の所生と伝わる子どものうち何人かが実の子どもではない、とされているところでしょう。


正直、私は茶々姫と離れているときのお督(お江)については全く詳しくないのですが、その乏しい知識でも素直に納得しがたかったのが、この東福門院和子と督の母子関係です。


この著書で福田先生が取り上げられているのが

①和子の生母とされる「妙徳院」の記録(「一札控之事」)

②和子の出産時期が国松(忠長)を産んで間もないこと

③和子の入内に付き添ったのが督ではなく「母代」阿茶局であったこと

④督の七回忌に香典を送った記録が見られないこと

などを以て、お督は和子の実の母ではないという結論に結び付けておられます。


この説を受け入れるとするならば、腑に落ちない点がいくつかあるので、それを上げてみたいと思います。


①和子の周囲に使える浅井家縁の女房
和子入内に督自身が付き添いませんでしたが、和子のそばには少なくとも3人の浅井家縁の女性が女房として仕えています。

・対馬(浅井定政女)

・出羽(浅井清忠女)

・宰相(浅井長政家臣横山家次女)…若宮乳母

彼女たちが選ばれた背景には、やはり和子と浅井家の間に縁があったからでしょう。

さらに、家光の妻選びに督自身が関わったことを考えると、督が自らこの女性たちを選んで娘に従わせたのかもしれません。


②和子と雁金屋

以前茶々姫の衣装について取り上げた雁金屋ですが、ここの呉服屋の記録で際立って多いのが東福門院和子の衣装です。

雁金屋を経営する尾形家は浅井家縁の家とも言われ、茶々姫を始め初・督の三姉妹がお得意さまとなっていたことが有名です。三姉妹は自身の衣装を注文していたばかりではなく、夫や子どもの衣装もこの雁金屋に注文していました。

和子と雁金屋の関係も、やはり督を介して培われたものではないかと考えるのが自然ではないでしょうか。


③浅井長政中納言追贈

三姉妹の父浅井長政に中納言に追贈されたのが寛永九年九月十五日のことです。なお、『東武実録』ではこれが家光の執請によるものであるとありますので、少なくとも長政の追贈には家光の祖父として追贈を受けたようです。しかしそれだけではなく、長政が和子にとっても祖父であるという事実も影響していたのではないかと思われます。


④和子による徳勝寺での長政・督追善供養

徳勝寺の住職江峰の記録によると、寛文十二年春、長政百年忌に東福門院が督の位牌をおさめたという記録を残してました。同時に送られた銀五十枚で堂宇を造営し、法事をしたそうです。

わざわざ督の実家の菩提寺で追善供養を行うからには、やはり和子と督・浅井家との間に関わりがなかったとは言えないように思います。


④養源院蔵観音逗子 ~茶々姫と和子

養源院にある観音逗子は茶々姫の持仏であったと伝えられています。

今日まで残っているのは、この観音逗子が和子の手に渡り養源院に納められたものだからです。

大坂の戦火で焼かれることなく、また略奪されて縁もゆかりもないところから出てきたならともかく、これは茶々姫の生前に督を通じて、入内する際に和子の手に渡ったものではないかと考えられます。


⑤病気見舞い ~初と和子

寛永元年七月に、督の次姉、初が病を得た際、和子は初の見舞う為、使者を遣わしています(大内日記)。

宮中からわざわざ遣いをやっているのは、やはり母方の伯母だからこそでしょう。

(ちなみに、家光も初が亡くなった際、香典として銀千枚を送っています〔寛永日記・京極家譜〕)


⑤香典

私も七回忌の供養がなかったのではなく、残らなかったのでは、という方がしっくりくる気がします。

実際、他に和子による督の供養記事を当たってみますと、寛永十年九月十五日には、養源院に使いを出し、金子一枚を奉納し、焼香させたという記事が『大内日記』に見えます。

その他、あまのかるもさんが『徳川実紀』より寛永十九年の督十七回忌、慶安元年の督二十三回忌に和子から香銀が送られたという記録を指摘されているほか、k2さんのブログではコメントにて和子が養源院に督の塔婆碑を建立したという記録があることを指摘されています。


→*『江の生涯』の感想 その二(東福門院和子の母代) /かとりぶたを側に置き(あまのかるもさん)

…あまのかるもさんは、督についてとても詳しい方です。和子以外の子女についても詳しく検討されています。

→*『江の生涯』感想その二について追記/かとりぶたを側に置き(あまのかるもさん)

…該当事項についてあまのさんが改めて詳しく書かれていますので、ご紹介します(2011/01/02追記)

→*江の生涯/泰巖宗安記(k2さん)


和子について、「妙徳院」の記録は存じていたのですが、上記の通りとても浅井に縁のない女性だとは思えませんでしたので、ずっと督の子どもだと思っていましたし、今でもやはりその方がしっくりきます。

和子を生むには年齢が…という話もありましたが、それにしたって高齢で出産した后妃や妻室を上げればきりがありませんし、なにより直前に忠長を生んでいるのならば、かえって和子だけ高齢だから…という理由は通らないように思います。


それでも、大河をきっかけに山ほど出版されている書籍の中でこれほど史料に忠実にお督を書いている本は他にないと思います。

これをきっかけに、さまざまな検討、時には批判が積み重ねられ、よりお督…そして未だまともに研究されたことのない女性たちの功績が明らかにされることを願ってやみません。


読んだ時から矛盾を感じてツイッターでいろいろ呟きつつ、いつかまとめて記事にしようとは思っていたのですが、今日になってしまいました…考えをまとめるというのはなかなか難しいものです。。


追記:和子の出産
別件で『徳川実紀』を読んでいたのですが、和子の出産の様子が思いのほか詳しく書かれていたので、追記したいと思います。

『徳川実紀』は十九世紀にまとめられたものですので一次史料ではないのですが、当時のいろいろな史料を集めたような編纂史料になっているようです。

和子の誕生についてはその父「台徳院殿御實紀 六」に記述があるのですが、そのお産にはかの有名な曲名瀬道三が付き添っていたらしいです。やはり、当時としては高齢出産ですから、万全を期したのでしょうか。

和子の前に生まれた国松の出産の際にも道三は付き添っていたようで、生後一週間後の国松の不調を『医学天正記』に記していることが福田先生の『江の生涯』で紹介されていました。

そして、このお産は「ことさら御なやみつよくわたらせ給ひし」とあり、難産であったことが記されています。それをよく治療・看病したということで道三は刀を賜ったようです。

周知の通り、督にとって和子が最後の子どもですが、それもこの出産が難産だったために、以降の出産を断念したように思えます。

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COMMENT

1. 和子と浅井家

こちらでのコメントははじめてです。こんにちは。
和子と浅井家との関わりはたくさんあるのですね。大変勉強になります。こうした情報を見ると、やはり和子はおごうの実子に思えます。
家光が初の死去の際に贈った香典も、姉の姑ではなく実の伯母だからだと思います。
その一方で確かにこの本は、おっしゃるとおり、史料の記述に基づいておごうを書いていると思います。本来それがあるべき形ですよね。

また私のブログを紹介してくださってありがとうございます。でも私はおごうに「とても詳しい」ということはないです。ふつうのおごうファンが持っている知識ぐらいしか持ち合わせてません。戦国時代も詳しくありませんし。もう一つご紹介されているブログでコメントされている方のほうが詳しいと思います。
しかもその方のコメントで、同じ書物でも写本や版で違いがあるという発想が自分には抜けていたことに気がつきました。お恥ずかしいです。
いろいろ心配になってきましたので、後日、自分のブログにてどの『徳川実紀』を参照したかとその部分の引用をあげておきます。せっかくご紹介していただいたのにこちらに不備があってすいません。

| あまのかるも | 2010/12/26 01:53 | URI | ≫ EDIT

2. Re:和子と浅井家

>あまのかるもさん

コメントありがとうございます。とてもうれしいです。

私も、史料について「~版」や「~本」というのをそこまで気にしたことがなかったので、同じ思いです。
確かに本当に歴史研究にお詳しい方なんだ、というのは思うのですが、あまのさんのおごうに対する思い入れや、好きという気持ちは誰にも負けていらっしゃらないと思います。
その気持ちがあると見えないものもときにはありますが、逆にその気持ちがなければ、見ることのできない面もたくさんあると思います。
普通ならば、「ふ~ん」と読み飛ばしてしまうところを、「何だと!?」と食いつく情熱やパワーはその最たるものだと思います。

あまのさんが茶々姫をお好きかどうかわかりませんが、私の中でおごうは家族の中で秀頼に続いて茶々姫と長く同じ時を過ごした愛妹だと思っているので、おごう好きのあまのさんにも勝手に親近感を抱いてしまいました。

…と、話がずれましたね(汗)
あまのさんがコメントでもあげておられる『徳川実紀』を読んでいたのですが、秀忠のところの和子誕生の項に、ことさら難産だった、という記述があるんですね。
曲名瀬道三が付き添っていていたのは出産のとき毎回そうだったのかわからないのですが、やはり当時としては高齢出産だったからこそ万全の用意をしていたんだなあという様子がうかがわれました。それでも難産だったというところがまた、説得力があると思います。
和子が末っ子だったのは、和子のお産が難産だったからかなあ…と思いつつ、これもこれから本分に追記しようと思っています。

もしよろしかったらこれからもあまのさんからやる気とパワーを分けていただきたいと思っています♪
よろしくお願いします!

| 紀伊@赤石いとこ | 2010/12/26 02:11 | URI | ≫ EDIT

3. 過大評価

紀伊様、直接は、はじめまして。そして、あまのかるも様はじめまして。
あまりの過大評価にK2さんが笑っているのではないかと、ハラハラしています。
実は、あの福田先生への質問は、K2さんへの非公開コメントで、ああした自問自答を何度も繰り返し、紆余曲折を経た結果で、K2さんには、その過程を全て見られていますもので・・・。そもそもあちらのブログに、江城西北住民(長すぎて改名)の名で最初にコメントを入れたのが、「徳川幕府家譜(乾)」という題の記事でした。
お二人のブログを拝見するに、とても私の及ぶ所ではありません。これからもいろいろと参考にさせて頂きます。
福田先生が参照された譜略は、勝姫に関しては、三田村鳶魚編「未刊随筆百種」の中で翻刻刊行された物だと思われます。忠長に関しては、御実紀の記載をそのまま掲載しただけの様です。鳶魚が翻刻するまでは、柳営譜略は写本としてのみ広まっていたので、成島司直等が御実紀編纂の為参照した本に、どういう経緯か、偶々「三月」と書かれていたものでしょう。
まだ、いろいろお伝えしたい点も見つかっていますが、また長くなりますので、K2さんの方へのコメントで、小出しにお伝えします。
とにもかくにも、過大評価だけはご勘弁下さい。

| 武江 | 2010/12/27 00:53 | URI | ≫ EDIT

4. Re:コメントありがとうございます

>武江さん

はじめまして。
まさかこちらにお越しいただけるとは夢にも思っておりませんでしたので、とても光栄です!

なんとかご連絡を取りたいと思ったのですが、結果的にk2さんのブログのコメントを許可なく引用してしまい、申し訳ありませんでした。

どんな見解も、発見も、縁のある方との間で磨くことにより形になっていくというのは私もよくわかります。
その過程がうかがえるからこそ、すごいと思います。

私はつい徳川系の史料を敬遠してしまい、正直督の子女についての史料や見解については全くついていけていないので、やはり自分の知識の及ばないところをご存じの方(武江さんも、あまのかるもさんも、k2さんも)は、尊敬します。
おかげさまでがっつり影響を受け、最近『徳川実紀』などにようやく手を出し始めました。

これからもk2さんのブログには伺わせていただきますので、武江さんのコメントも楽しみにしています^^

過大評価というつもりは全くなかったのですが、お気に障りました部分がございましたら、申し訳ございませんでした。お許しください。

| 紀伊@赤石いとこ | 2010/12/27 02:03 | URI | ≫ EDIT

5. 温恭院御実紀

紀伊様
気に障るというような事は、全く有りません。くすぐったい、気恥ずかしい、というような気分ですので、ご安心下さい。
「徳川実紀」をお読みという事であれば、茶々ファンの紀伊さんに、是非見て頂きたい記載が有ります。
それは「続徳川実紀」の温恭院(家定)御実紀。もう随分時期はずれになってしまいましたが、「篤姫」の輿入れ前後の記録です。ここでは、江戸城に入城し、姫君様(御台様になるまでの呼称)と称されるまでの篤姫が、「“篤君”御方」と繰り返し表現されています。福田先生も「徳川幕府家譜」の記載を引き合いに小和田説に疑問を呈していますが、譜略の本文中でも、大政所の病気で聚楽第に逗留した朝日が「朝日君」とされており、これだけあちこちにこの表現が散見されるところを見ると、19世紀前後には、こうした呼称が、普及し始めていたようです。
篤姫の記録の近辺、例えば東大赤門縁の家斉の娘溶姫などは、「溶姫君」と表現されているので、その差異から、御実紀編者の中では何らかの法則はあったのかもしれませんが、勿論蔑称と言う様なものでは有り得ません。
当然、坪内逍遥が「桐一葉」を書いた頃には、「淀君」の呼称を、不自然だとは感じなくなっていたはずです。小和田説は、逍遥にとっても、劇に込めた意図を歪めたかもしれない迷惑な話ではないかと思います。
勿論現在では、使わないに越した事はありませんが。

| 武江 | 2010/12/28 00:59 | URI | ≫ EDIT

6. Re:温恭院御実紀

>武江さん

情報ありがとうございます。
そうですね、当時の公家の姫の名前でも「待君」、「梅君」というように残されていますので、おっしゃられる通りだと思います。
ただ、他の方はお名前+君、であって、茶々姫の「淀」はお名前でなく号であるところが気になってはいますが…

私が「淀君」が蔑称であるいう理解に触れたのは、まだ史料というものにも触れたことがなかったような時期に読んだ、小和田先生や田端泰子先生などの本や論文でした。
史料に準じて理解をする、という方法を知ってからは、「『淀君』が蔑称である」という事実も史料に基づいた理解ではないと気がつきました。
ただ、最初に「そうなのか…」と思った印象が強すぎたのと、実際に「淀君」を使った作品等でいやな思いをした記憶とで、今でも個人的に受け入れられないでおります。
福田先生の『淀殿』を読んで、「淀君」だけでなく、「淀殿」も当時茶々姫がそう呼ばれたことがなく、また正しく茶々姫を評価した呼称ではないということを知り、それも使わなくなりました。
…といいますか、本名が分からない女性ならともかく、分かるのに女性だけ本名で通らないというのも不思議な話だな、と思っておりました。
男性ならば、諱ではありますが本名で通され、本名の分かる方を呼称で号では通されないのに…と。
(私が論文を書いた頃は、「浅井茶々」では論文的ではないと担当の先生に言われました…)
それからは、女性もお名前のわかる方はお名前で通させていただくよう心がけている次第です。
(茶々姫のみ「姫」をつけさせていただいているのは、これは完全に私の思い入れの問題です…)

しかし、少し前から〝「淀君」が本当に蔑称なのか?〟ということについて、いろいろな方からご意見をいただき、ある程度は考えてはいたのですが、今回お教えいただいたことでまたある程度考えが固まりました。ありがとうございます。

| 紀伊@赤石いとこ | 2010/12/28 03:01 | URI | ≫ EDIT

7. あけましておめでとうございます

昨年はいろいろとご教示くださりありがとうございました。
今年もよろしくお願いいたします。

私のコメントに暖かいレスありがとうございます。年末できちんとしたレスができなかったためお礼が遅くなりました。紀伊さんにそのように言っていただけてとても安心いたしました。
お茶々さんは好きです。おごうにとっては大事な優しい姉上だったと思ってます。おごうを知ったのは茶々さん最悪キャラの小説ですけど、さすがに今は茶々さんの設定については信じてません。三姉妹それぞれ美点も欠点もあるごくふつうの女性で、姉妹仲はよかったと思うほうがしっくりきます。
追記も読みました。『徳川実紀』も確認いたしました。難産だったという記録はたしかに説得力を増すものだと思います。出産って大変なんですね…。
そして武江さんのことで気を使わせてしまったようで申し訳ありませんでした。
知識もそうですが、歴史上の人物への愛という意味では、紀伊さんは尊敬すべき方です。これからもよろしくお願いします。
(そして長々とレスをつけてすいません…)

武江様
はじめまして。
過大評価との件ですが、武江さんに対してというのではなく、私の問題というか、私のこの時代や人物の知識が最近まで昔読んだ小説やエッセイや概略本が元だったために、知識や史料の情報収集や読み込みがまだ不十分だと言いたかったので、他意はございません。いろいろと申し訳ないです…。
また柳営譜略の写本による違い等興味深いお話を拝見でき、勉強になりました。この場をお借りしてお礼申し上げます。ありがとうございました。これからも参考にさせていただきます。

| あまのかるも | 2011/01/02 18:31 | URI | ≫ EDIT

8. Re:あけましておめでとうございます

>あまのかるもさん

明けましておめでとうございます。
昨年末に滑り込むようにお邪魔して、こちらこそいろいろと勉強になりました。ありがとうございました。

茶々姫が最悪な小説…永井氏とか澤田氏でしょうか…あの方たちにも嫌いぬかれておりますので…(ボソ

こちらこそ、これからもブログを拝読させていただくのを楽しみにしています!
惚れぬいた方(笑)が姉妹同志ということでひとつ、これからもよろしくお願いいたします。

| 紀伊@赤石いとこ | 2011/01/02 22:25 | URI | ≫ EDIT

9. 謹賀新年

紀伊様
明けましておめでとうございます。
そして、あまのかるも様
これ又この場をお借りして、明けましておめでとうございます。
>あまのかるも様
先に紀伊さんにお伝えした通りの事ですので。こちらこそ、皆さんに気を遣わせてしまい、申し訳ございません。
あまのさんの産み月の考察、我等男には、考え及ばぬところなれば、非常に参考になります。
>紀伊様、あまのかるも様
「江の生涯」P179、忠長誕生から和子誕生までの間が約16ヶ月とありますが、慶長十二年には閏四月が有りますので、17ヶ月です。参考までに。
こういうミスも含め、福田先生は、ちょっと結論を急ぎ過ぎな感じを受けました。御実紀などが参照している史料の作成年代、作成者の来歴などから、きちんと史料批判を行うことが先だと思います。明暦の大火など、史料を失わせる要因も考慮すべきです。
やばい!正月早々長くなりました。
と言うことで、今年も宜しくお願いいたします。

| 武江 | 2011/01/03 20:34 | URI | ≫ EDIT

10. Re:謹賀新年

>武江さん

あけましておめでとうございます!

今日は長浜城に展示説明会に行ってきたのですが、そこで太田先生が、『江の生涯』は著者ご本人の母親フィルターが掛かり過ぎ…と仰っていました。
でも、あの時期にあれだけ史料を検討した督の研究本は唯一無二で、絶対に読むべきセンセーショナルな一冊だ!となぜかめっちゃ宣伝されていました(笑)
センセーショナルだけれども、すべての意見を肯定することはできないと。
私の気持ちも、同じような気がします。尊敬している先生ですし、「於江与」の解釈など本当に素晴らしいと思うのですが、腑に落ちない点が多々ある…それらは研究者さんによってさらに磨かれるべき論点なのでしょう。

…関係あるのかないのかよくわからない返信になってしまいました。
今年もこんな感じですがよろしくお願いいたしますm(_ _)m

| 紀伊@赤石いとこ | 2011/01/03 22:55 | URI | ≫ EDIT















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