『別冊歴史読本 江ガイドブック』、前の記事で書いた通り、トップ記事は本当に残念だったのですが、河上繁樹氏の「姫君たちの華麗なるファッション」はとても面白かったです。
…といいますか、例の「ふしみ殿」の着物が出てくるのですが、その顛末記、この間国会図書館からコピーを取り寄せてようやく読んだばかりだったのに、そのまま記事を使われていて複雑な気持ちになりました(苦笑)
お寧や三姉妹、豊臣秀頼、徳川家康・秀忠、東福門院など名だたる有名人が贔屓にした雁金屋という呉服屋が出てくるのですが、この雁金屋尾形家は浅井家の家来筋に当たるとされるそうで、三姉妹そろってこのお店を贔屓にしている様子を想像して、とてもほほえましく温かい気持ちになりました。
こちらの記事で慶長7年の注文表から、お寧さん・茶々姫・お初・お督4人の注文した柄を検証しているのですが、お初とお督が紅色を良く使い、お寧さんと茶々姫の小袖には紫色が多用され紅色を避けられていることから、お寧さんと茶々姫が秀吉の死後後家として華やかな色を避けていたのではという指摘があることを始めて知りました。
この件は森理恵氏「雁金屋『慶長七年御染地之帳』にみる衣服の性別」(『風俗史学』改題九号、1999年)で指摘されているそうです。
ちなみに、このとき茶々姫が注文された小袖は
「くもの内地しろのもんむくら一くもすすき一くも水ふき又つたむらさきつまミみちはあさき水」
(雲の形を白くして、一つの雲には葎〔むぐら〕、あるいは水蕗〔みずぶき〕や蔦を紫色につまんで、雲の間は浅黄色で水をあらわす。水色の地に白い雲が浮かび、その雲のなかに紫色の草花を散らした)
という「清楚な感じの小袖」だったそうです(記事より引用)。
背の高い茶々姫が来たら、確かにさわやかでりりしくてカッコ良さそうですね!
ちなみに、福田千鶴先生の『淀殿 われ太閤の妻となりて』にも慶長七年・八年に注文した記録が取り上げられています。
(慶長七年分)
①ほ(よヵ)とさま 大さか御しろにてうけ取
一、上御地もへきなわすめすち七所ニうわもん
なし 卯月十九日
…「萌葱地に縄目筋の上紋を七ヵ所に染めた呉服」
②同人
一、上御地あさきのこはんかうしたすき
むらさき 上る
…「浅葱地に碁盤格子・襷(紫)模様を染めた呉服」
③同人
一、上御地こひちゃはつれ雪二つ三つかさねて
うえあさきしろきに
御一え物 卯月十九日上る
…「媚茶地にはづれ雪を二つ、三つほど重ねた模様を染めた単物」
(慶長八年分)
①「総紫地の鹿子絞りに細い白筋一つずつを七ヵ所に入れた呉服」
②「固織に白い竜を唐墻にした上紋に桔梗を二つ三つ連れにして紅鹿子・びわ鹿子・浅黄色を小柄に散らした呉服」
③「浅葱地に水蕗の紋を四ヵ所に入れ、紫の雲筋の紋、千本松・桔梗・鹿子も少し入れた呉服」
④「大柄の浅葱色の菱散らし紋に菊の葉を五ヵ所に入れ、菱筋の内側は紫色で、びわ・浅葱・紫鹿子を取り合わせた呉服」
慶長八年分の注文主は「大坂御うへさま」となっているそうです。福田先生の評は「茶々の好みの色は浅葱色と紫色で、模様は複雑で派手なものを求めたようである」とあります。
私は着物の柄には全く素人ですが、このように複雑な柄を指定するのにはやはりそれなりの教養と美意識が求められるのでしょうね。
ドラマの印象では秀吉の没後も赤や金の華やかな着物をまとっている印象ですが、真実は精巧な文様を散らしながらも浅葱や紫、媚茶といった控えめな色をまとい秀吉の後家としての立場を死ぬまで決して忘れなかったのでしょう。
そんなところもまた、かっこいい流石の生き様です。
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