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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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天正十三年の茶々姫?

 

今回は、『歴史読本』のほうで、天正十三年の正月に茶々姫が大坂城にいたらしいことが『兼見卿記』に見えるらしい、ということを教えていただいたので、そちらを確認してみました。


福田先生は昨日の天正十四年十月記事が一次史料初登場、というふうにおっしゃられていたので、これが茶々姫ならばその記録を塗り替えることになりますね。


『兼見卿記』は現在活字化されているのが天正十二年までで、あと文禄年間~を岸本眞実氏が『ビブリア』にて活字化されているらしいですが、私は天正十二年までしか持っておりません…。『兼見卿記』にはいろいろと情報があるということなので、ぜひとも天正年間を早く活字化していただきたい…と他力本願なことを言いたくなる勉強不足な私です…


ということなのですが、今回は幸運にも大日本史料より該当箇所を探し出すことが出来ました。

天正十三年正月二十八日の記事です。


廿八日、庚子、天晴、

(中略:御所での祈祷関係、吉田兼和、休庵を訪れることなど)

大坂ちゃ/\方ヨリ書状、美濃紙廿帖、到来、返礼俄ニ不調之由、使先返畢、明朝罷下之由申之間、自是重而返事可調下之由申、罷下了、


さて、まずは昨日同様同姓同名問題ですが、『大日本史料』から引いていますので、昨日ほど精密な調査が出来ませんが、ざっと前後を見たところ、やはり天正十三年五月十六日条に於次秀勝のところに「ちゃ/\」さんが登場しています。


丹州亀山へ御祓持下之、修理進罷下也、御次へ御祓、御女房へ御祓計進之、薫衣香五、御袋へ御祓、薫衣香五、ちゃ/\白粉五、書状遣之、毎度此分也、石懸善右衛門尉へ五明五本・御祓遣之、入夜罷帰、御袋ヨリ弐百疋、御次御返事無之、


秀勝は天正十三年末には病没してしまうのですが、この「ちゃちゃ」さんは丹波亀山にいらっしゃる侍女さんのようです。特段用がなければ大坂にいらっしゃる方ではないように思います。その「特段」が正月二十八日にあったかどうかはわかりませんが…

ふたつの違いですが、前者は「ちゃ/\方」、後者は「ちゃ/\」ということで、前者により敬意を表されていますが、前回を考えるとその他記事を比較してみないと断言はできかねますね…

「大坂ニ」云々の「ニ」歴読では「二の丸」と解釈されたのでしょうか。


でも、突然大坂から書状と美濃紙が送られてきて、慌てた兼見が取り急ぎ御使いを送り、改めて返礼を調え御返事します、と伝えさせている様子は、確かに驚くような人からの手紙だったのかなあなんて気もします。

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Comment

1. ちゃちゃ

こんばんは。
大変勉強になります。
その二。二の丸と解釈してました。
兼見は活字化されてないので、専門家さんも見落とされてるぐらいですから、紀伊様の論考楽しみにしてます。

2010.11.25 | k2[URL] | Edit

2. Re:ちゃちゃ

>k2さん

コメントありがとうございます^^
兼見卿記天正年間分刊行してほしいです…。私が崩し字読めればいい話なんですが(汗

「二」は確かに接続詞の「に」と解釈してはおかしいですから、二の丸の意でいいのかもしれません。

2010.11.26 | 紀伊@赤石いとこ[URL] | Edit

    
プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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