先日の福田千鶴先生講演会にて、
『言経卿記』の天正十四年十月一日に茶々姫が大政所を訪問した記事がある…と聞き、昨日雨の中届いた史料でようやく確認しました。
一日、壬戌、 天晴、
一、茶々御方大政所へ被行了、
…なんとも小ざっぱりとした記事ですが、実は、この記事でものすごく悩まされています。
問題は、当時「茶々」という名前が決して珍しいものではなかったということ(「茶々」に限りませんが…)で、この『言経卿記』にも「茶々」という名前のつく女性が他にも登場します。
それは、四条隆昌の関係者なのですが…彼女の正体についても、言経さんに直接語っていただきましょう。
「四条妻御茶々」(天正十二年十二月二十三日条)
「□条□中御茶々(「四条女中」が虫食い)」(天正十四年四月八日条)
「御茶々被来、殿下御妹局」(天正十四年九月二十七日条)
「御茶々 四妾、徳川妻御乳、」
…はい、という訳で、四条隆昌の妻妾に「御茶々」さんという方がいらっしゃり、この方は徳川家康に嫁いだ秀吉の妹(後の南明院)の乳母だった、ということです。
実は、天正十四年に南明院が家康に嫁いでいる関係で、この前後、かなり「御茶々」さんの記事が出て来ます。
今のところ、史料のそろっている天正十二・十四年よりその一覧を…
・天正十二年
12/18「四条女房衆」
12/19「四条女房衆」
12/23「四条妻御茶々」
・天正十三年
2/7「四条御茶々」
(以下調査中)
・天正十四年
4/8「四条女中御茶々」、「御茶々」(大坂より上洛記事)
4/12「御茶々御方」(「御茶々御方薄暮ニ被来了、」)
4/14「御茶々御方」(大坂下向記事)
4/19「御茶々御方」(「御茶々御方ヨリ向ヨリ入来了、」)
9/27「御茶々」(「入夜御茶々被来、殿下御妹局ト〆徳川家康嫁娶ニ付テ被行了、殿下ヘ御使云々、入来了、被宿了、…」)
10/1「茶々御方」(「茶々御方大政所へ被行了、」)
10/7「御茶々」(「夜半ニ御茶々大坂ヨリ入来了、」)
10/8「御茶々」(「早朝ニ御茶々大坂へ被行了、則上洛了、」)
11/1「御茶々」(言経邸にて夕食記事)
11/2「御茶々」(上洛記事、愛洲薬を所望)
12/27「御茶々四妾徳川妻御乳」(近々下国のため挨拶。愛洲薬を所望し、「持明院」・「大和三位入道」へ言伝する)
…さて、いかがでしょうか。
同じく福田先生の講演会で、『言経卿記』で女性に「御方」とつけられるのは相当高貴な女性のみ…とおっしゃられていたために、最初は「茶々御方」と「御茶々」は別人を指すのかしら、なんて軽く考えていたのですが……四月の記事に「御茶々」さんが「御茶々御方」で散々登場するんです…うーん(大汗)
内容からいって、この「御茶々御方」が茶々姫を指すとは考えられません。
そして、天正十四年九~十月、後の南明院が家康に嫁ぐという話が動き出し(話が出たのは春ごろのようです。『言経卿記』での初出は四月二十八日。)、年末には御茶々も南明院に従って駿河の国に下向したことが分かります。
(個人的には、御茶々さんが元から南明院の乳母だったとは考えにくいので、「御茶々御方」が頻発している四月ごろ…ちょうど家康への輿入れ話が出たころですね。その頃に乳母に任じられたのでは?と考えています。)
流れを追うと、南明院の使いとして秀吉に会いに行き、大政所へ挨拶or報告を終え、また冷泉邸(摂津中島)にもどり、南明院の待つ聚楽第へ上洛…不自然さは特に感じませんが、京を拠点にしている方ですから、これら一連を一度も帰洛、もしくは冷泉邸に帰らずにこなしたのだろうか?というのは疑問です。
ちなみに、活字化されている『言経卿記』では、「茶々御方」を御茶々として解釈しています。
ただ、福田先生があえてこの「茶々御方」を茶々姫であると解釈したのはどうしてだろう…と考えていたのですが、細かいことですが、私が所持している範囲で、「御茶々」さんが「茶々」や「茶々御方」と「御」抜きで記録されているところがここ以外にないんですよね(一覧参照)。
これだけ登場していて、ここしか「御」をぬかしていないというのも不自然といえば不自然。
私の中でどちらとも結論付けるには、まだもう少し検討が必要なようです…
明日は天正十三年の記事を。
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