湖北は大変郷土史の活動が盛んですので、しょっちゅう村の歴史についての冊子が発売されていたりします。
なので、湖北へ行った際、チェックは欠かさないのですが、今回は小谷城に関する書籍が出ていました。
すでに大河をにらんだお江ツアーが始まっているようで、今回もツアー一行を何組か見ましたが、
この本はお江の故郷(生地かどうかはともかくとして)小谷城を訪れる方をにらんだものでしょう。
小谷城下まちづくりウォーク実行委員会
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こちらには小谷城はもちろん、小谷城や浅井氏ゆかりの寺院などが紹介されています。
中には河毛泉龍寺に伝わる「伝小谷城裏門」など、あちらに住んでいても知らなかった情報がいくつもあったりして、ぜひとも一度訪れたい場所がまた増えてしまった次第です(苦笑)
さて、今回は表題の通り、後の正芸こと万菊丸の話が詳しく掲載されていましたので、ご紹介したいと思います。
そして、中島左近家の伝承はこのことを次のように詳しく物語る。すなわち、万菊丸はまず上山田の礼信寺にかくまわれ、そこから山田山の尾根伝いに北に逃れて、奥琵琶湖に突き出た葛籠尾崎にある菅浦安相寺にたどり着く。ついで、左近の養育のもと、そこで数年間を過ごした後、福田寺十一世覚芸の養子に入り十二世正芸を名乗り、その法灯を継いだという。
なお、中島家は現在も福田寺の直参門徒であり、福田寺の護持に努めているつとめている。
…とのことです。
現在も中島家では何代かごとに当主が「左近」さんを名乗られているそうです。
当代の左近さんは…実は内科で御見かけしたことがあったのですが、生来の人見知りが災いして結局声を掛けられず…
ですが、同じ集落に住んでいる方にお聞きしたのですが、中島家では今も万菊丸を守るときに携えていた槍が伝えられているそうです。
万菊丸の存在は、それを伝える史料の著者が万菊丸を先祖とする方で、そのために信憑性が低いといわれてきました。
私個人としては、菅浦安相寺を訪れたときに、その地の利があまりにも理にかなっていたことに感銘を受け、「これはいただろう!」と思うに至ったわけですが、このような話を聞くと、往時のことが鮮やかに蘇りそうですね。
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