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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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赤尾の菊姫さま

 
久しぶりに湖北をまわってきました。訪れた場所はタイトルの通り。
以下は、備忘録よろしく感想などを書いていきます。

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西徳寺(長浜市木之本町赤尾)

目的は赤尾清綱さんの本拠、赤尾城跡。
いろいろと予習をしたいったのですが、現在の西徳寺というお寺の西隣、ということで、西徳寺の取材をした後、失礼ながら場所だけでも確認したく、住職さんのお宅に伺いました。
幸い住職さんが大変良い方で、いろいろと教えを請うことができました。

何より書いておかなければ、と思ったことは、赤尾清綱の子女について。
清綱もしくは清冬をネット検索すると、清綱の子女について「虎千代」(のちの清冬)、「菊姫」という名前が頻出します。
これらの出典は、おそらく旧木之本町(現長浜市)の観光協会のサイトに載せられていた木之本町各地の伝承を集めた記事かと思われます。
(URL: http://www.ex.biwa.ne.jp/~kino-kan/NewFiles/siteseen/densetu3.html …現在はデッドリンクです)
実は、この記事を書かれた方こそ、西徳寺のご住職でいらっしゃる磯野泰恵さんだったのです。

私も菊姫に関する記事は何度も読み込んでいたので、それだけでも嬉しい驚きだったのですが、
ご住職によると、この「菊姫」という名前はご住職のつけた名前であるということでした。(後日、「虎千代」は系図史料で確認できました。)
私も今日までは菊姫という名前自体も赤尾に伝わる伝承なのかと勘違いしていましたし、ネットを見ると同じ勘違いをしてしまった方がたくさんいらっしゃるのではないかと思い、ぜひとも書きとめておこうと思った次第です。

西徳寺は古くからある浄土真宗のお寺で戦国時代には別の場所にあったそうです。
現在西徳寺がある敷地には当時養泉寺という天台宗のお寺があり、織田家との戦で焼き討ちされてしまった後に西徳寺さんが移られたとのことでした。

赤尾清綱さんといえば、長政公が小谷城赤尾屋敷で自刃したことからも察することができる通り、浅井家にとっては腹心中の腹心。
そんな赤尾さんのお膝元はぜひとも訪れたい場所の一つでした。
(当時の赤尾村は現在の赤尾だけでなく北布施という集落も含まれていたとのこと)

ちなみに、ご住職の書かれた清綱の姫が入水した伝説は確かにあります。
赤尾屋敷よりさらに山のほうに今も池の跡(ただし水は絶えているとか)が残っているそうです。
今の季節は毎日のようにイノシシが出ているそうで、直接行くことはかないませんでしたが、ご住職のお宅から写真を撮ることはできました(ガラス越しですが^^;)。
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土が盛られているのが赤尾屋敷の敷地の一部(めっちゃ広いです)、奥に見え…てはいないけど、あるのが菊姫伝説の池だそうです。
ちなみに、手前には堀の跡が突っ切っていました。

まあ、そんな感じで!
取材した素材をサイトにアップできるのはいつのことやら…という感じですが、忘れないうちに。
でもまあ、「菊姫」という名前は上の事情を踏まえたうえで使っていきたいとは思っています。

私としては、生地を命を賭して守った姫が、ようやくご住職によって名前をもらったといったという感覚です^^
でもまあ、史実や伝承ではないよ~ということだけ。
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プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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