Posted at 2008.11.08 Category : ∟講演会/展覧会
今日は刀や甲冑に関しての展示説明会もありました。
その中で姫に関わる刀に関する話題を。
そもそも浅井系の武具はほとんど残っていないのですが、それは浅井が滅亡した一族だからというのが一つの理由です。
そしてもう一つの理由が茶々姫もまた、大坂城で自刃という結末を迎えたからだといいます。
浅井宗家が滅亡後、ご存知のとおり浅井の支えとなったのが茶々姫でした。
自然縁の人も物も姫のもとに集まり、大坂城には浅井縁の品々がたくさんあったかもしれないそうです。
ふむ、なるほど。そうするとちょっと話は変わってくる。
まず、茶々姫が大坂城にこだわった理由。
秀頼を外に出さないというのが秀吉との約束だったとはいえ、喉元に刃を突きつけられてなお転封を拒んだのはなぜでしょう。
その一つが、大坂城にあったかもしれない浅井縁の品々だったとしたら…
大坂城にあった豊臣縁の品々は、孝蔵主や木下家定を通じて姫がお寧さんに少しずつ託して疎開していました。
一方浅井の品々は…託すべきおごうとの間にそれほどのパイプがあったとは思えません。
それでも、やはり疎開はしていると思います。
理由は、姫が(お初はもちろん)浅井系侍女を幾人も逃していたこと。
もちろん、彼女たちの命を守ることを目的としていたことはいうまでもありませんが、彼女たちにはきっと僅かながら浅井の品々を託したのではないか…と、この浅井縁の品々について知ったときにふと考えたのです。
今回話題に上ったのは二つの刀。
一本は「浅井一文字」と呼ばれる名刀で、長政の刀だったといわれているものです。
これは茶々姫の手に渡り、大坂の陣にて行方不明になった後に尾張徳川家の手に渡ったといいます。
しかしながら現存せず、関東大震災で山県有朋邸のなかで焼けてしまったとか…
まずなによりも、父の持刀が茶々姫の手に渡っていたというところが、先ほどの縁の品々が集まってきていたというのと合致します。
やはり浅井縁の人々にとって茶々姫は心のよりどころとなる存在であったことが偲ばれますね。
今回説明してくださった学芸員さんは、焼け跡の捜索で尾張徳川家に渡ったのでは、ということでしたが、刀身に「一」としかしるされていない刀、それが「『浅井』一文字」だと判別できるものでしょうか(しかも焼け跡で)。
そういえば、慰霊宴で姫が作庵に浅井縁の刀を持たせてお初と逃げるようにはからったという話を書きました。
あのときはもちろん「浅井一文字」という刀は知らず、浅井三代記に出てきた亮政由来の刀を登場させたわけですが…
やっぱり、父の愛刀はお初か、作庵かに託したのではないでしょうか。
しかし無事逃げ延びたことだけでも奇跡に近いあの状態で、名刀はなんらかの理由により作庵、もしくはお初の手を離れたとしたら…
…あまり根拠のない妄想はこのあたりにしましょうか。
さて、もう一本ですが、これは茶々姫の短刀「来国光」です。
これまた名刀で、どういう経緯でか18世紀はじめに売りに出された記録が最後となり、こちらは現在行方不明だそうです。
茶々姫の愛刀がこの世のどこかで眠っているかもしれないのですね。
もしかすると太平洋戦争かなんかで海外に流出している可能性だってあります。
でもいつか、暗い蔵の中から陽を浴びる日が来ることを願ってやみません。そして、世界のどこにあろうともこの目で見に行きたいです。
この2本の刀については、「長浜み~な」の100号に掲載されているそうです。よかったらどうぞ。
(別窓/長浜み~な編集室)
その中で姫に関わる刀に関する話題を。
そもそも浅井系の武具はほとんど残っていないのですが、それは浅井が滅亡した一族だからというのが一つの理由です。
そしてもう一つの理由が茶々姫もまた、大坂城で自刃という結末を迎えたからだといいます。
浅井宗家が滅亡後、ご存知のとおり浅井の支えとなったのが茶々姫でした。
自然縁の人も物も姫のもとに集まり、大坂城には浅井縁の品々がたくさんあったかもしれないそうです。
ふむ、なるほど。そうするとちょっと話は変わってくる。
まず、茶々姫が大坂城にこだわった理由。
秀頼を外に出さないというのが秀吉との約束だったとはいえ、喉元に刃を突きつけられてなお転封を拒んだのはなぜでしょう。
その一つが、大坂城にあったかもしれない浅井縁の品々だったとしたら…
大坂城にあった豊臣縁の品々は、孝蔵主や木下家定を通じて姫がお寧さんに少しずつ託して疎開していました。
一方浅井の品々は…託すべきおごうとの間にそれほどのパイプがあったとは思えません。
それでも、やはり疎開はしていると思います。
理由は、姫が(お初はもちろん)浅井系侍女を幾人も逃していたこと。
もちろん、彼女たちの命を守ることを目的としていたことはいうまでもありませんが、彼女たちにはきっと僅かながら浅井の品々を託したのではないか…と、この浅井縁の品々について知ったときにふと考えたのです。
今回話題に上ったのは二つの刀。
一本は「浅井一文字」と呼ばれる名刀で、長政の刀だったといわれているものです。
これは茶々姫の手に渡り、大坂の陣にて行方不明になった後に尾張徳川家の手に渡ったといいます。
しかしながら現存せず、関東大震災で山県有朋邸のなかで焼けてしまったとか…
まずなによりも、父の持刀が茶々姫の手に渡っていたというところが、先ほどの縁の品々が集まってきていたというのと合致します。
やはり浅井縁の人々にとって茶々姫は心のよりどころとなる存在であったことが偲ばれますね。
今回説明してくださった学芸員さんは、焼け跡の捜索で尾張徳川家に渡ったのでは、ということでしたが、刀身に「一」としかしるされていない刀、それが「『浅井』一文字」だと判別できるものでしょうか(しかも焼け跡で)。
そういえば、慰霊宴で姫が作庵に浅井縁の刀を持たせてお初と逃げるようにはからったという話を書きました。
あのときはもちろん「浅井一文字」という刀は知らず、浅井三代記に出てきた亮政由来の刀を登場させたわけですが…
やっぱり、父の愛刀はお初か、作庵かに託したのではないでしょうか。
しかし無事逃げ延びたことだけでも奇跡に近いあの状態で、名刀はなんらかの理由により作庵、もしくはお初の手を離れたとしたら…
…あまり根拠のない妄想はこのあたりにしましょうか。
さて、もう一本ですが、これは茶々姫の短刀「来国光」です。
これまた名刀で、どういう経緯でか18世紀はじめに売りに出された記録が最後となり、こちらは現在行方不明だそうです。
茶々姫の愛刀がこの世のどこかで眠っているかもしれないのですね。
もしかすると太平洋戦争かなんかで海外に流出している可能性だってあります。
でもいつか、暗い蔵の中から陽を浴びる日が来ることを願ってやみません。そして、世界のどこにあろうともこの目で見に行きたいです。
この2本の刀については、「長浜み~な」の100号に掲載されているそうです。よかったらどうぞ。
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