Posted at 2009.02.08 Category : ∟史料関係
随分とご無沙汰しています。
久しぶりにちょこっとだけ更新しましたのでお知らせを。
近江多賀大社の僧、日野資勝の息子慈性の『慈性日記』、
そして土御門泰重の『泰重日記』を更新しました。
泰重については、
茶々姫が小谷落城後からお世話になっていたであろう織田信包(老犬斎)の曾孫にあたる方(嫡子信重の次女が泰重の母)だそうです。
ちょこっとだけで申し訳ありません!
見所は、
家康に流れてゆく時勢のなかで、
秀頼とその子国松の死がどのように捕らえられていたか、だと思います。
特に泰重は二人の死に、
「毎人皆無不哀傷候」(秀頼)
「哀傷也」(国松)
という言葉を記していました。
大坂の陣では、最期の炎が清涼殿から見えていたという記事もあり、改めてながら、感じるところの多い内容でした。
久しぶりにちょこっとだけ更新しましたのでお知らせを。
近江多賀大社の僧、日野資勝の息子慈性の『慈性日記』、
そして土御門泰重の『泰重日記』を更新しました。
泰重については、
茶々姫が小谷落城後からお世話になっていたであろう織田信包(老犬斎)の曾孫にあたる方(嫡子信重の次女が泰重の母)だそうです。
ちょこっとだけで申し訳ありません!
見所は、
家康に流れてゆく時勢のなかで、
秀頼とその子国松の死がどのように捕らえられていたか、だと思います。
特に泰重は二人の死に、
「毎人皆無不哀傷候」(秀頼)
「哀傷也」(国松)
という言葉を記していました。
大坂の陣では、最期の炎が清涼殿から見えていたという記事もあり、改めてながら、感じるところの多い内容でした。
スポンサーサイト
Tracback
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)