Posted at 1912.05.08 Category : 編年史料
元亀四・天正元(1573)年
五月〔小谷城(大広間御殿か)〕
この月
浅井長政末子万菊丸(万寿丸・幾丸・虎千代丸とも。後の伝法院正芸)生まれる。守役として中島左近・小川伝四郎を付け近江福田寺(安相寺とも)にあずけ密かに育てさせるという。
八月〔小谷城→実宰院?→羽柴秀吉陣営→清洲城?伊勢上野城?〕
二十六日
浅井長政(「浅井備前」)、市(「御女房」)や茶々姫ら娘(「女子ども」)を小谷山から出し、羽柴秀吉に託す。 これに従い、茶々姫ら姉妹(「御子等」)、市(「御妹御様」)、付き添いの老女(「御付き添いの老女」/大蔵卿局らか?)とともに小谷城を退去し、羽柴秀吉(「羽柴筑前様」)の陣へ降る。 母娘手に手をとって裸足で小谷山を降り、羽柴陣営に入った後はひたすら念仏を唱え続けていたという。
(※ お市母子脱出の様子にはいくつもの異説がある)
なおこの記事には、落ち延びた市ら母子について、「母子共に御三方まことに…」という一節がある。落ち延びたのは市・茶々姫・初・督(江)の四人とされているが、 督(江)が生まれていなかったのか、督が赤子のため勘定に入っていないのか、誰かが別行動していたのかはわからない。
〔武功夜話〕(但し、『武功夜話』は偽書説もあるので注意)
二十八日
浅井長政(「備州長政」)、三人の娘(「三人の女子」)をなんとかして助けようと、藤掛三河守に木村小四郎という者を輿添につけ、この日の夜、市(「内室」)に三人の娘を信長(「信長公」)のもとへ送り届けさせるという。
その後、しばらくの間信包(「上野介信包」)に預け置かれ、その後尾張清州城に移され、信長の扶持で養育されるという。
〔総見記〕 (但し、総見記は元禄年間の成立のため、全て真実とはいえないので注意が必要)
九月〔伊勢上野城?清洲城?〕
十九日
茶々姫祖母(浅井長政母)阿古(浅井家霊簿「小の〔小野〕様」)、 織田信長の命により十指を数日に渡り切られる拷問を受けた末に刑死する。
〔島記録・高野山浅井家霊簿〕
十月〔実宰院?、伊勢上野城?、清洲城?〕
十七日
茶々姫の兄万福丸(当代「万福」、信長公記「浅井備前十歳の嫡男」)、織田方の手に掛かり関ヶ原に刑死する。
〔信長公記・当代記・浅井三代記・高野山浅井家霊簿〕
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五月〔小谷城(大広間御殿か)〕
この月
浅井長政末子万菊丸(万寿丸・幾丸・虎千代丸とも。後の伝法院正芸)生まれる。守役として中島左近・小川伝四郎を付け近江福田寺(安相寺とも)にあずけ密かに育てさせるという。
・万菊丸の母 お弁の方
その母について、湖北町上山田では当地出身の長政女房衆「おべん(弁)の方」と伝わり、彼女の屋敷跡や最期の地が山田山に「おべんが谷」という小字で残っている。
このお弁の方という女性について、同地では絶世の美女とされ、浅井滅亡の後も華美な生活をやめず、更に手癖の悪さから村人によって石子詰めにされ殺されたと伝わっている。 お弁は最期に「この村には以降美人は生まれないだろう」と言い置いて死んだという。
事の顛末を全て鵜呑みにすることは難しいが、村が存続するためには浅井家に強く連なる女性を持て余したであろうことは想像に難くない。
・万菊丸の守役 中島左近
万菊丸の守役の一人中島左近のご子孫は同町にて現在も存続し、福田寺寺伝と同様の家伝が語り継がれている(『丁野誌』より)。 浅井三代記・『丁野誌』・『上山田の歴史と文化』
八月〔小谷城→実宰院?→羽柴秀吉陣営→清洲城?伊勢上野城?〕
二十六日
浅井長政(「浅井備前」)、市(「御女房」)や茶々姫ら娘(「女子ども」)を小谷山から出し、羽柴秀吉に託す。 これに従い、茶々姫ら姉妹(「御子等」)、市(「御妹御様」)、付き添いの老女(「御付き添いの老女」/大蔵卿局らか?)とともに小谷城を退去し、羽柴秀吉(「羽柴筑前様」)の陣へ降る。 母娘手に手をとって裸足で小谷山を降り、羽柴陣営に入った後はひたすら念仏を唱え続けていたという。
(※ お市母子脱出の様子にはいくつもの異説がある)
なおこの記事には、落ち延びた市ら母子について、「母子共に御三方まことに…」という一節がある。落ち延びたのは市・茶々姫・初・督(江)の四人とされているが、 督(江)が生まれていなかったのか、督が赤子のため勘定に入っていないのか、誰かが別行動していたのかはわからない。
〔武功夜話〕(但し、『武功夜話』は偽書説もあるので注意)
二十八日
浅井長政(「備州長政」)、三人の娘(「三人の女子」)をなんとかして助けようと、藤掛三河守に木村小四郎という者を輿添につけ、この日の夜、市(「内室」)に三人の娘を信長(「信長公」)のもとへ送り届けさせるという。
その後、しばらくの間信包(「上野介信包」)に預け置かれ、その後尾張清州城に移され、信長の扶持で養育されるという。
〔総見記〕 (但し、総見記は元禄年間の成立のため、全て真実とはいえないので注意が必要)
九月〔伊勢上野城?清洲城?〕
十九日
茶々姫祖母(浅井長政母)阿古(浅井家霊簿「小の〔小野〕様」)、 織田信長の命により十指を数日に渡り切られる拷問を受けた末に刑死する。
〔島記録・高野山浅井家霊簿〕
十月〔実宰院?、伊勢上野城?、清洲城?〕
十七日
茶々姫の兄万福丸(当代「万福」、信長公記「浅井備前十歳の嫡男」)、織田方の手に掛かり関ヶ原に刑死する。
〔信長公記・当代記・浅井三代記・高野山浅井家霊簿〕
・万福丸に関する記述
当代記: 越前へ人質として赴くも朝倉氏滅亡の後逃れて加賀国へ。そのとき盲人となる。お市(「母」)・信長母土田御前(「祖母公 信長御袋」)を頼るが、近江木之本にて信長により刑死される。
信長公記: 最期の場所は関ヶ原。磔の末に刑死。
浅井三代記: 木村喜内之介を付けられ敦賀に匿される。しかし信長に欺かれ探し出され木之本にて串刺の刑に散る。(その日は九月三日とされるが、これは誤り。また、浅井三代記自体信憑性に乏しい記述が多々見えるため注意が必要)
総見記: 今年十歳になる長政庶子(「備州下腹の男子」)を秀吉が探し出し、信長に差し出したところ、すぐに処刑するよう命じられる。(ただし、総見記は元禄年間の成立のため、注意が必要)
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