Posted at 1912.05.08 Category : 編年史料
永禄十二(1569)年
この年
茶々姫、浅井長政を父に、市(織田信長妹)を母に生まれる。
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この年
茶々姫、浅井長政を父に、市(織田信長妹)を母に生まれる。
・市の出生
但し、「織田系図」では市の父を織田與康であり、信長にとって市は従兄弟の娘にあたるとし、「以貴小伝」では北庄城において市の身近に仕えたという渓心院という女房の話として、実は市は信長の従妹であったのを養妹として長政に嫁がせたとする。
・茶々姫の生年
茶々姫の生年について、「井伊年譜」や「大坂御陣覚書」ではの茶々姫の享年を三十九歳としているため、逆算して生年は天正五(1577)年となる。父浅井長政は天正元年に戦死しているため、これは成り立たない。 また『翁草』では享年を三十九歳、四十歳、四十五歳、四十九歳と四つの説をあげており、それぞれ逆算すると生年は天正五(1577)年、天正四(1578)年、天正二(1574)年、永禄十(1567)年となる。 永禄十年説以外は前者と同様に、父長政の死後となるため、整合性のとれる永禄十年説が長らく使われてきた。 現在も『翁草』を根拠とした永禄十年説(但し、同書は他に3つの説も提示している)は根強いが、井上安代氏が「星座から推定した淀殿の年齢」(『豊臣秀頼』)において、茶々姫の「有気」に関する『義演准后日記』の記録と、市の永禄十~十一年輿入れ説によりこの年を茶々姫の生まれた年と推定された。現在はこの説が多く受け入れられている。
・茶々姫の生年についての一考察
私も永禄十二年説に賛同します。永禄十二年誕生だと北庄落城時点で数えで十五歳で、それ以前の誕生だと信長の生前に茶々姫はすでに結婚適齢期をとうに迎えていることになります。市が信長による婚姻話を拒んだのではという方もいらっしゃいますが、私はたとえ市が拒んだとしても信長の意思に逆らえなかったと考えるほうが自然だと思いますし、市自身も茶々姫の将来を考えなかったはずはなかったと思うのです。 となると、信長変死→北庄落城の動乱期に適齢期を迎えている永禄十二年説が最も受け入れやすいのではないでしょうか。 近年、妹である江と佐治一成の婚姻が信長の意思だったのでは、という説もありますので、信長が三姉妹の嫁ぎ先を考えていたのは十分に考えられることです。 ひょっとすると茶々姫にも信長の決めた許嫁があったかもしれませんが、動乱によって輿入れを迎えることなく本能寺の変を迎えたのではないでしょうか。
(参考)
井上安代『豊臣秀頼』、翁草、井伊年譜、大坂御陣覚書、小和田哲男『近江浅井氏の研究』
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