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1607/慶長十二年

慶長十二(1607)年
※ []内は茶々姫の居場所

この年


秀頼(「秀ー」)について、「巳御歳、秀ー御十五才 八月三日御誕生、」の記載あり。〔義演准后日記(同年七月条)〕

正月

[大坂城本丸奥御殿]
二日
徳川家康(「大御所」)、この日より二月半ばまで麻疾を煩う。京坂では家康危篤の噂が止まなかったという。〔徳川実紀(台徳院殿御実紀)〕

三日(天晴)
寧(「政所」)、豊国社へ新年の参拝に訪れる。〔舜旧記〕

四日(晴)
豊国社へ片桐且元(「片桐市正」)、秀頼(「大坂」)名代として豊国社を訪れる。このとき、秀頼は百匹を奉納し、茶々姫(「御母様」)は金子一枚を奉納する。〔舜旧記〕
義演、建部寿徳下人より下醍醐伽藍再興の許可がでる報を耳にする。〔義演准后日記〕

五日(晴)
義演、秀頼(「秀頼公」)誕生日につき、自ら導師となり経衆と共に大般若経を転読する。 経衆は理性院公秀・松橋堯円・民部卿俊長・中将演照・二位演賀・大夫堯政・少将源朝・刑部卿亮済・少貳演快・演俊・宋倩・宗寿〔正しくは人偏に寿〕・演超・眞勝。〔義演准后日記〕
梵舜、寧(「政所」)へ伺候し、考蔵主(「カウ蔵主」)、客人局(「客人」)、古茶局(「御コチヤ」)、梅久局(「梅久」)、木下家定(「木下法印」)らに進物する。〔舜旧記〕

十一日(雪花時々散乱)
義演、大坂に山田長運(「宰相」)を遣わし、秀頼へ祈祷巻数・進物などを贈る。〔義演准后日記〕

十三日(霽)
山田長運(「宰相」)、大坂より義演への返礼を持ち帰る。
二条昭実・鷹司信房・九条忠栄・梶井宮承快・随心院増孝・義演、京都所司代板倉勝重(「板倉伊賀守」)を年始の礼に訪れる。〔義演准后日記〕

十四日(晴)
梵舜、年賀のため来坂。はじめ片桐且元へ礼参し、大坂城へ登る。秀頼(「秀頼様」)へ新年の礼を述べた後、秀頼へ進物あり。 その内訳は梵舜は秀頼へ杉原十帖・一本、豊国神官惣中として太刀折紙馬代三百匹。 また、茶々姫(「御母儀様」)へ杉原十帖・水引三十、大蔵卿局へ匂香十貝などを進上する。〔舜旧記〕
堯円(「松橋法印」)、大坂より帰京し、義演に明十五日に祈祷のため来坂する旨を伝える。〔義演准后日記〕

十五日(雨)
義演、井内経紹(「大蔵卿法印」)・山田長運(「宰相上座」)・井内経信(「侍従寺主」)・三河寺忠為(「三河上座」)・(「和泉上座」)をつれ、明十六日の大坂城大般若経転読のため大坂へ下る。
義演、大坂到着後、茶々姫(「御袋」)・千(「姫君」)へそれぞれ杉原一束・足袋縫物二足、大蔵卿局・伊茶局(「いちや」)へ摺薄帯二筋を贈る。 大蔵卿局、義演へ返礼として樽二荷・折を進上する。
また義演、執事の片桐且元(「執事市正」)へ山田長運(「宰相」)を遣わし、太刀一腰・馬代三百疋を贈る。且元、長運へすぐに返礼を託す。〔義演准后日記〕
有節瑞保、大坂城に登り、片桐且元(「片市殿」)を訪問するが、且元とは眼病のため会えず。千畳敷において爆竹、笛鼓太鼓の御囃子あり。秀頼(「秀頼公」)、これを見物する。〔鹿苑日録〕

十六日(屬晴)
大坂城にて大般若経転読が行われる。導師は義演。 経衆は理性院公秀・松橋堯円・民部卿俊長・金剛王院実融・東寺宝輪院宗俊・二位演賀・大夫堯政・刑部卿亮済・少将源朝・少貳演快・演俊・宋倩・宗寿〔正しくは人偏に寿〕・演超・行樹院眞勝(「今度始也」との注記あり)。
布施として導師義演へ秀頼より銀子二十枚、茶々姫(「御袋」)より小袖一重、千(「姫君」)より同じく小袖一重、その他鵝眼三千三百疋、八木二石(人側賄料か)が贈られる。また経衆分として良家へは銀三枚、平民には二枚が贈られる。
転読の後、秀頼と対面。義演、秀頼に杉原五十帖・巻物一を進上する。 盃事あり。義演、秀頼より直接盃を頂、義演よりその他の経衆へ盃が回される。〔義演准后日記〕

十八日(晴)
秀吉月忌。豊国神社にて拝殿において理趣三昧の法楽あり。年頭より義演出仕し金剛輪院において御膳を供える。〔義演准后日記〕

二十四日(雪)
朝、九条忠栄(「九条殿」)に男児生まれる。母は茶々姫の猶子であるのちの完子姫。義演は二条昭実よりこの話を聞く。なお、この男児(松鶴丸)はのちに昭実の養子となる二条康道(※ 昭実は忠栄の父方の叔父にあたる)。〔義演准后日記〕

二十七日(雨)
山科言緒(「内蔵頭」)ら、翌日の秀頼へ歳首賀礼のため、大坂へ赴く。〔言経卿記〕

二十八日(雨)
勅使並びに諸公家諸門跡より秀頼(鹿苑「秀頼様」、言経「秀頼公」)へ総礼あり。〔鹿苑日録、言経卿記〕

二十九日(晴)
山科言経、大坂より帰洛する息子言緒(「内蔵頭」)のため、淀まで迎えを遣わす。〔言経卿記〕

二月

[大坂城本丸奥御殿]
一日(晴)
秀頼祈祷のため、愛染日護摩を開白する。〔義演准后日記〕

三日(晴)
義演、秀頼(「秀頼公」)誕生日につき、仁王講を修す。その後秀頼方(「大坂」)へ井内経紹(「大蔵卿」)を遣わし、に祈祷札・折を送る。また伊茶局(「いちや」)へ音信を送る。〔義演准后日記〕

五日(晴)
完子姫(「九条殿御内儀」)、義演へ樽代二百疋・三種を贈る。安産祈願の礼か。〔義演准后日記〕

六日(晴)
義演、下醍醐伽藍再興を大坂へ訴えるため、下醍醐伽藍惣指図を作成する。〔義演准后日記〕

七日(晴)
先月末より江戸逗留中の舟橋秀賢、この日江(「御台様」)より小袖一重を拝領する。大久保忠隣(「大久保相州」)の書添あり。〔慶長日件録〕

九日(雨)
義演、大坂の秀頼(「右大臣殿」)執事片桐且元(「片桐市正」)へ使者北村主水を送り、書状を以って下醍醐伽藍再興を訴える。〔義演准后日記〕

十一日
片桐且元、義演に返書する。曰く、下醍醐伽藍再興は秀頼(「秀頼公」)未だ若年のため決しがたく、家康(「大御所御方」)・茶々姫(「御袋御方」)両所で決せられるべきとのこと。〔井内経紹宛片桐且元書状(義演准后日記)〕

(書下)
御書拝見仕候、下醍醐寺伽藍御再興之儀被仰聞候、   秀頼公御若年故、左様之儀御心得参かね申候、此中者 大御所御方・御袋御方御両所より被仰付儀候、 只今何共難計御座候、旁追而可得御意候条、此も之趣御取成所仰候、恐々謹言、
   二月十日                  片桐市正
     大蔵卿殿                  且元判

(意訳) お手紙拝見いたしました。下醍醐寺伽藍の再興について拝聴いたしました。 秀頼様はまだお若いため、そのようなことについて決めかね、 大御所様、及び御袋様お二人によって決められるべきことでございます。 ただいまは諸事情によりお二人に計りがたいので、追って再興について御意が得られますようにいたしますのでご理解ください。
   二月十日                  片桐市正
       大蔵卿法印井内経紹殿           且元判

二十六日(自朝晴天)
大坂城内にて能が興行される。秀頼(「秀頼公」)これを遊覧し、興行する。〔鹿苑日録〕

三月

[大坂城本丸奥御殿]
三日(晴)
義演、秀頼(「秀頼公」)誕生日につき、仁王講を修す。〔義演准后日記〕

四日(晴)
「江戸局」上洛につき、義演、樽二荷・二種を遣わす。〔義演准后日記〕

十日
義演、桜花を新上東門院勧修寺晴子(「女院」)・後陽成天皇女御近衛前子(「女御」)・鷹司信尚室清子内親王(「女三」)・寧(「北政所」)・鷹司信房(「鷹司殿」)・九条忠栄(「九条殿」)・西笑承兌(「兌長老」)へ贈る。〔義演准后日記〕

四月

[大坂城本丸奥御殿]
三日(晴)
義演、秀頼(「秀頼公」)誕生日につき、自ら導師となり経衆五人と仁王講を修す。〔義演准后日記〕

四日(雨)
義演、大坂へ「和泉寺主」(「初而遣之」の注記有)を遣わし、秀頼方へ初物の竹子(「当年以外遅也」の注記有)を贈る。
義演、寧(「北政所」)に杜若・蕨を一折進上する。「御祝着」との返事あり。また、「江戸局」へも同じものを遣わす。〔義演准后日記〕

十七日(天晴)
寧(「政所」)、明日の豊国祭につき豊国社へ参拝し、銀五枚・神楽などを奉納する。神官たちに進物あり。孝蔵主(「康蔵主」)取り次ぐ。〔舜旧記〕

十八日(天晴)
豊国祭。
辰刻(午前八時ごろ)、秀頼(「大坂」)の名代として大野治長(「大野修理」)が装束姿にて豊国社を参詣。 養源院成伯(「養源院」)より奉納あり。
治長ら退出の後、その日の午後、勅使として西三条実条(「西三条」)が装束にて参向、奉幣あり。後陽成天皇(「禁裏」)の意向で、 勅使の参詣に神楽は行われず。〔舜旧記〕

二十七日
大坂の町にて大火あり?〔義演准后日記〕

三十日(晴)
義演、去る二十七日に大坂の町にて大火ありの報を聞く。すぐに見舞のため井内経信(「侍従寺主」)に竹子を持たせて大坂に遣わす。〔義演准后日記〕

閏四月

[大坂城本丸奥御殿]
一日(晴)
秀頼祈祷のため、愛染日護摩を開白する。〔義演准后日記〕

三日(晴)
義演、秀頼(「秀頼公」)誕生日につき、自ら導師となり仁王講を修す。〔義演准后日記〕

八日
結城秀康(「越前中納言秀康卿」/徳川家康次男、豊臣秀吉養子のち結城晴朝養嗣子)、北庄城にて三十四歳で没する。〔義演准后日記〕

十二日(自朝晴天)
この頃、大坂に火つけがあり、そのため大坂の町中酉刻以降は閉門して外出しない。〔鹿苑日録〕

十三日(自朝晴天)
秀頼(「秀頼公」)、結城秀康(「三州」)の見舞のため片桐貞隆(「片主」)を越前に派遣するらしいという話、もしくはもう亡くなってしまったため、弔問に派遣するとの話の二つの噂が流れる。有節瑞保は患っており家を出られないので、真偽を確かめられなかった。〔鹿苑日録〕

十四日(自朝晴天)
午時、秀頼(「秀頼公」)の名代として越前に赴いていた片桐貞隆(「片主」)が帰宅する。見舞ではなく弔問であったことが分かる。 〔鹿苑日録(同月十五日条)〕

五月

[大坂城本丸奥御殿]
三日(晴)
義演、秀頼(「秀頼公」)誕生日につき、自ら導師となり経衆十二人と共に大般若経を転読する。 経衆は理性院公秀・松橋堯円・民部卿俊長・二位演賀・大夫堯政・少将源朝・刑部卿亮済・少貳演快・宋倩・演俊・宗寿〔正しくは人偏に寿〕・演超。
その後秀頼方(「大坂」)へ井内経紹(「大蔵卿」)を遣わし、祈祷札・巻数・折を贈る。〔義演准后日記〕

十三日
義演、上醍醐三堂の本尊を造立したい旨の書状を片桐且元・大蔵卿局(「大くら卿殿」)宛てに書く。 山上学侶、大坂祈祷の下向の際に大般若札五十枚と共に持参するとのこと。

〔片桐且元宛義演書状(義演准后日記)〕

〔書下〕
大般若札五十枚、予書之、   上醍醐伽藍本尊之事、
今度上醍醐御建立被成候三堂御本尊之儀、御新造之様ニ於取成者、弥以可為忝悦候、 何様にも頼入存候、尚寺衆可申入候、穴賢/\、
   五月十四日        判
   片桐市正殿

〔意訳〕
まず、わたくしが書きました大般若札五十枚をお送りいたします。
さて、上醍醐伽藍の本尊につきまして申し上げます。
このたびご建立くださいました上醍醐のご本尊につきまして、新しく作っていただけますように お取り計らいいただけますれば、いよいよありがたく思います。どうかお願いいたします。
なお、この件に関して、寺のものが詳細を申し入れますのでよろしくお願いいたいます。
   五月十四日
   片桐市正且元殿

〔大蔵卿局宛義演書状(義演准后日記)〕

〔書下〕
上たいこからん三つおほせつけられ、はや/\といてきまいらせ候、
それニつきほんそんいまたなく候、とてもの御事ニおほせいたされ候やうニ御ちそう候ハゝ、おの/\いよ/\ありかたくそんし候へく候、
御うへさま御きけんハかりかたく存候へとも、御うかゝい候て、なにとそ御きもいり候ハゝ御うれしく存候へく候、
てらしゅせつ/\ニ申候てのかれかたくまゝさて申入まいらせ候、
御きしよくよきやうニたのみ/\いりまいらせ候、かしこ、
   大くら卿殿

〔意訳〕
このたび御上様(茶々姫)には上醍醐伽藍三堂の再興についてお世話いただきましてありがとうございます。 おかげさまで三堂は早々と出来つつあります。
しかしながら残念なことに三堂に安置すべき御本尊が未だありません。 もしこの上ご本尊の造立をお世話いただけますならば、いよいよありがたいことでございます。
御上様(茶々姫)のご機嫌がどのようであるかは私には分かりかねることではございますが、 どうかお伺いいただきまして、何卒ご本尊の造立についてお世話いただけますれば大変嬉しく思います。
寺の者も御本尊造立の願いをせつせつと申しますので、聞き流すことが出来なくてこのように申し上げました。
良きお返事がいただけますように、どうぞお取次ぎをお願い申し上げます。
   大蔵卿(局)

十六日(霽)
大坂城にて大般若経転読が行われる。導師は義演。 経衆は理性院公秀・松橋堯円・民部卿俊長・中将演照・金剛王院実融・二位演賀・東寺観智院亮盛・大夫堯政・少将源朝・刑部卿亮済・少貳演快・演俊・宋倩・宗寿〔正しくは人偏に寿〕・演超。
布施として導師義演へ秀頼(「秀ー」)より銀子二十枚・単物三つ、千(「姫君」)より同じく単物三つ、その他鵝眼三千三百疋、八木二石(人側賄料か)が贈られる。 また経衆分として良家へは銀三枚、平民には二枚が贈られる。
転読の後、義演、秀頼に杉原百帖を進上する。 盃事あり。義演、直接(秀頼より?)盃を頂、義演よりその他の経衆へ盃が回される。〔義演准后日記〕

十八日(天晴)
辰刻、寧(「政所」)が秀吉月忌につき豊国社へ参詣し銀子百五十目を奉納する。神官たちに進物あり。〔舜旧記〕
義演、秀吉月忌につき神供する。〔義演准后日記〕

二十四日
義演、上醍醐三伽藍の本尊再興のため、仏具図を描く。 俊長、これを持ち大坂に下向し、この日の朝大坂に提出する。〔義演准后日記〕
二十九日(天晴)
梵舜、秀頼(「秀頼公」)へ礼参のため大坂城へ登る。例の如くまず早朝に片桐且元(「片桐市正」)を訪問し、取次ぎを依頼する。 梵舜、秀頼に礼辞言上ののち、団扇二本を進上する。〔舜旧記〕

三十日
俊長、夕刻に大坂より帰寺する。上醍醐三伽藍の本尊・諸道具について秀頼(「右大臣殿」)に訴えるも、見積過分(二千石)により申し入れできず。〔義演准后日記〕

六月

[大坂城本丸奥御殿]
三日
義演、秀頼(「秀頼公」)誕生日につき、経衆と共に大般若経を転読する。今回、大輔演慶と大進演光を初めて経衆に加える。〔義演准后日記〕

二十五日(天晴)
梵舜、寧(「政所」)を見舞う。孝蔵主(「康蔵主」)取り次ぐ。〔舜旧記〕

二十九日
義演、大坂へ使者を遣わし、秀頼(「秀頼公」)へ松虫を進上する。〔義演准后日記(同年七月一日条)〕

七月

[大坂城本丸奥御殿]
一日(霽)
義演、秀頼祈祷のため、愛染日護摩を開白する。
秀頼(「秀頼公」)不例の旨、大坂より帰寺した使者より義演に伝わる。しかしながらはっきりした情報は伝わらず、義演案じる。〔義演准后日記〕

三日
義演、秀頼(「秀頼公」)誕生日につき、仁王講を修す。今回、大輔演慶と大進演光を初めて経衆に加える。〔義演准后日記〕

十八日
義演、秀吉月忌につき神供する。〔義演准后日記〕

八月

[大坂城本丸奥御殿]
一日
義演、秀頼祈祷のため、愛染日護摩を開白する。〔義演准后日記〕

二日(天晴)
豊国社へ勅額を賜う旨、片桐且元(「片市正」)より梵舜へ申し来る。梵舜、武家伝奏の勧修寺光豊(「勧修寺(殿)」)・広橋兼勝(「広橋殿」)へ参内について相談する。〔舜旧記〕

三日
義演、秀頼(「秀頼公」)誕生日につき、自ら導師となり山上山下の経衆と共に大般若経を転読する。
その後秀頼へ木練一折・引合五十帖を、大蔵卿局・伊茶局(「いちや」)へ錫鉢を贈る。〔義演准后日記〕
勅額が出来上がったため、秀頼の名代として片桐貞隆(「片桐主膳正」)が上洛する。〔舜旧記〕

四日(天晴)
勅額を賜るため、勅使として豊国社へ武家伝奏の勧修寺光豊(「勧修寺中納言殿」)・広橋兼勝(「広橋大納言殿」)が参詣する。片桐貞隆(「片桐主膳正」)が秀頼の名代として参詣する。
勅額受け取りのあと吉田兼見(「二位」)宅にて饗応あり。 貞隆、秀頼よりの進物として広橋兼勝・勧修寺光豊へ銀子十枚・袷一ツ・絹二ツ・帷二ツを送る。 また兼見方へは太刀馬代三貫、梵舜へは杉原二十帖・百疋をを私として贈る。 を賜う旨、片桐且元(「片市正」)より梵舜へ申し来る。梵舜、武家伝奏の勧修寺光豊(「勧修寺(殿)」)・広橋兼勝(「広橋殿」)へ参内について相談する。〔舜旧記〕

お寧(「政所」)、豊国社へ参詣し、湯立奉納を観る。また、勅使として広橋兼勝(「広橋大納言兼勝卿」)、勧修寺光豊(「勧修寺中納言光豊卿」)が豊国社に参詣し、勅額を授ける。吉田兼見(「吉田二位兼見卿」)、下陣にて拝受して神前簾上にうつ。その後、兼見が祈念し、両伝奏進拝し、続いて秀頼(「大坂」)の代参として片桐貞隆(「片桐主膳貞隆」)、総神官衆みな拝す。秀頼(「大坂」)、両勅使へ銀十枚、袷一などを送る。〔徳川実紀〕

五日
秀頼(「秀頼公」)、義演へ大般若経転読の布施として銀子十枚を贈る。〔義演准后日記〕

十三日(天晴)
梵舜、大坂の片桐且元(「市正」)へ舞殿の奉行について申し遣う。〔舜旧記〕

十六日(天晴)
八条宮智仁親王(「八条殿」)、豊国社へ参詣。
またこの日、勅額を楼門に打ち付け、大工の藤三に一貫を遣わす。〔舜旧記〕

十七日(天晴)
巳刻、明日の豊国祭につき寧(「政所」)が豊国社へ参詣し、銀子五枚を奉納する。湯立を拝観の後、阿弥陀が峰の秀吉墓所へ詣でる。〔舜旧記〕

十八日(天晴)
豊国祭。
勅使として西園寺実益(「西園寺大納言実益」)が束帯姿で参詣し、太刀折紙を奉納する。
その後秀頼(「大坂」)の名代として片桐貞隆(「片桐主膳正」)が金子一枚百貫を奉納し、吉田兼従(「慶鶴丸」)・ 吉田兼治(「左兵衛督〔佐〕」)へ銀子五枚を遣わす。その後、私として貞隆が二貫を奉納する。〔舜旧記〕

二十日(天晴)
西笑承兌(「相国寺豊光寺」)、豊国社へ参社する。〔舜旧記〕

九月

[大坂城本丸奥御殿]
一日
義演、秀頼祈祷のため、愛染日護摩を開白する。〔義演准后日記〕

三日
義演、秀頼(「秀頼公」)誕生日につき、自ら導師となり山上山下の経衆と共に大般若経を転読する。〔義演准后日記〕

十五日
義演、明十六日の大坂城大般若経転読のため大坂へ下る。
義演、大坂到着後下向案内として足袋絹薄摺を、茶々姫(「御袋」)へ三足、千(「姫君」)へ二足、大蔵卿局へも二足、伊茶局(「いちや」)へも二足贈る。〔義演准后日記〕

十六日
大坂城にて大般若経転読・加持祈祷が行われる。導師は義演。 経衆は理性院公秀・松橋堯円・東寺光明院堯瑜・民部卿俊長・金剛王院実融・二位演賀・大夫堯政・少将源朝・刑部卿亮済・少貳演快・演俊・宋倩・演超・演慶(「今度初也、礼拝加行中也」の注記有)。
布施として導師義演へ秀頼より銀子二十枚・鵝眼三千三百疋・小袖ニ重・八木二石(人側賄料か)が贈られる。また経衆分として良家(四人)へは銀四枚、平民には二枚の計三十四枚が贈られる。
転読の後、秀頼(「右大臣殿」)と対面。盃事あり。義演、秀頼より盃を頂き、義演よりその他の経衆へ盃が回される。〔義演准后日記〕

十月

[大坂城本丸奥御殿]
四日
徳川秀忠の息女(のちの東福門院和子)、生まれる。母は江。
曲名瀬道三(「延寿院道三」)が付き添っていたが、当時としては高齢の出産であったためか、ことさら難産であったという。
『御先祖記』では、和子が生まれた時に、江戸中に香が薫ったとの伝説が載せられている。〔徳川実紀〕

七日
星合具泰(「星合采女正具泰」)の娘が召しだされ、和子付きとなる。和子入内ののちは女房頭として「肥後局」と称し、三位を与えられる。後に江戸へ帰り、神尾守勝(「神尾宮内少輔守勝」)の妻となる。子はなし。〔徳川実紀〕

二十五日(天晴)
梵舜、北野社へ参詣する。本殿が秀頼(「大坂」)によって造替中のため、ご神体は愛染堂に遷座中。〔舜旧記〕

十一月

[大坂城本丸奥御殿]
一日
義演、秀頼祈祷のため、愛染日護摩を開白する。〔義演准后日記〕

三日
義演、秀頼(「秀頼公」)誕生日につき、自ら導師となり仁王講を修す。〔義演准后日記〕

十一日
義演、九条忠栄(「九条殿」)の侍衆が起こした乱暴について、二条昭実(「二条殿」)・故二条晴良室位子女王(「同政所様」)へ詫言仲介のために訪問する。〔義演准后日記〕

二十五日(天晴)
片桐貞隆(「片桐主膳」)、板倉勝重(「板倉伊賀守」)とともに東山照高院まで送られる。〔舜旧記(同月二十六日条)〕

二十六日(天晴)
寧の姪(「政所様姪女」)、豊国社社務萩原兼従と祝言をあげる。〔舜旧記〕

二十九日(天晴)
梵舜、萩原兼従妻(「御料人」/寧の姪)を訪問する。孝蔵主(「康蔵主」)、奏者を務める。〔舜旧記〕

十二月

[大坂城本丸奥御殿]
一日
義演、秀頼(「秀頼公」)息災祈祷のため、不動護摩を開白する。〔義演准后日記〕

三日
義演、秀頼(「秀頼公」)誕生日につき、自ら導師となり仁王講を修す。〔義演准后日記〕

八日
秀頼(「大坂」)、義演に使者として成伯(「養源院」)を遣わし、節分祈念の布施銀子三十枚を贈る。 また、大蔵卿局からの文もあり。ただし義演出京のため(下項参照)留守。後刻、京門跡にて成伯、義演と対面する。
義演、九条忠栄(「九条殿」)の侍衆が起こした乱暴について詫言仲介のために出京する。〔義演准后日記〕

十日
義演、帰寺する。詫言仲介は不調に終わる。〔義演准后日記〕

十五日
北野天満宮、この日正遷宮。なお、社殿は秀頼(棟札「右大臣豊臣朝臣秀頼公」、義演「秀頼公」)の寄進によってことごとく新造されたもの。
〔北野神社棟札(檜材 高三尺七寸六分 横九寸五分)〕

(表)
             慶長十二暦十二月吉日
北野天満天神本社 右大臣豊臣朝臣秀頼公再興施
             片桐東市正且元(花押)奉之
(裏)
奉行    荒木勝太光高(花押)
御大工   藤原森田和泉守重次(花押)
当社御大工 岩倉五郎左右衛門(花押)
神事奉行  松梅院法印禅昌(花押)
義演、この日の暁、節分につき秀頼(「秀頼公」)の息災祈念のため、聖天供を開白する。〔義演准后日記〕

十八日
寧、秀吉月忌につき豊国社へ参詣し、神事を観る。銀子三枚を奉納する。〔舜旧記〕
義演、秀吉月忌につき出仕し理趣三昧を修す。〔義演准后日記〕

十九日
九条忠栄(「九条殿」)、右大臣を拝賀することが決まる。元日に沙汰ありとのこと。忠栄、叔父二条昭実より樽を拝領する。また義演に布施百疋を贈り、星供養を依頼する。〔義演准后日記〕

二十日
義演、二条家一族及び秀頼(「秀頼公」)のために星開眼供養を行い、真言・仁王経・大般若経を転読し、武運長久を祈念する。〔義演准后日記〕

二十一日
義演、秀頼方(「大坂」)へ祈祷巻数・団・撫物・蜜柑を送る。この日、池田家(「幡州池田」)へも進物有。〔義演准后日記〕
板倉勝重(「板倉伊賀守」)と大工・中井正清(「大和守」)、この日禁裏の縄張をする。敷地は広大ながら後陽成天皇が不満の意を表したため決まらず。 また、天皇が二条邸を新上東門院勧修寺晴子へ譲る旨を突然表明し、義演驚く。〔義演准后日記(同月二十四日条)〕

二十二日
この夏新造したばかりの駿河城が、この日の夜から翌二十三日の朝まで燃え続け、悉く焼失する。家康(「大御所」)・その子ら・及び上臈女房衆は無事だが、下々の女房衆の消息は知れず。 江戸や伏見から移した道具も焼失とのこと。なお、これにより禁裏の新造のため上京していた中井正清(「大和守」)も二十七日朝に駿河へ発ち、また醍醐寺の工事にあたっていた大工も二十八日朝に徴せられる。〔義演准后日記(同月二十七日条)〕

二十四日
義演、板倉勝重(「板倉伊賀守」)・西笑承兌(「兌長老」)・閑室元佶(「学校」)へ歳暮を贈る。また、茶阿局(「ちゃ阿」/豊臣家老女)・成伯(「養源院」)へ樽を贈る。〔義演准后日記〕

二十八日
秀頼、駿河城火災の見舞いに伊茶局(「いちや」)を遣わす。〔義演准后日記〕

二十九日(天晴)
秀頼、駿河城火災の見舞いに片桐且元(「片桐市正」)を遣わす。
義演も伏見へ使者を送り、家康(「大御所」)・蔭山殿(「御万御方」)・頼宣(「常陸介殿」)・頼房(「鶴御所」)へ見舞いのため祈祷巻数・守などを贈り、宰相局へ文で言付ける。〔義演准后日記〕



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