Posted at 2016.10.25 Category : ∟史料関係
大坂から人質に出された大野治長の息子、徳川方の認識ではほぼ共通して「信濃守」。でも落城時の記録では「信濃守」が殉死している。ので、人質に出されたのは次男弥十郎とされている。ちなみに治長の次弟「壱岐守」は大坂の陣で徳川方の使者になったりしているが、大坂落城後パタリと消息が途絶える。
posted at 00:42:18
のちに下谷海禅寺で刑死する「弥十郎」を治長次男とする人と、治長次弟壱岐守治純のこととする人がいる。正直、治純なら壱岐守と記されそうだと思うのだけど。思うのだけど、治純も消息が途絶えるからひょっとして…という思いも捨てきれない。 twitter.com/itoko_akaishi/…
posted at 01:27:48
あったあった。「大野修理亮ガ二男弥十郎ヲハ誅戮可仕由被仰遣」「武州下谷於海禅寺大野弥十郎被誅」。やっぱこの時点では嫡男ではなくちゃんと次男の認識だわ。 twitter.com/itoko_akaishi/…
posted at 01:34:59
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