Posted at 1912.05.08 Category : 編年史料
慶長十四(1609)年 己酉
※ []内は茶々姫の居場所
一日
秀頼(「右府秀頼公」)、駿府城(「駿城」)に使いを送り、家康に歳首を賀す。〔徳川実紀〕
この月
秀頼(「大坂豊臣右府」)の沙汰で大仏殿が再建される。諸国浦々から良材を集め、西国中国四国九州の諸大名、二万石、一万石、五千石、あるいは三千石ずつを大坂へ送り、その費用を負担したという。大坂方よりの奉行として片桐且元(「片桐市正且元」)と森出雲守、江戸方より小島久右衛門、中村弥左衛門、正村次右衛門、清水久衛門、植木久兵衛が監使を務めた。 毎日工匠を数万人動員し、経費は日に千金以上かかったという。
『徳川実紀』では、秀吉(「太閤」)が備蓄した千枚分銅を石河勝政(「石河三右衛門」)、饗庭民部が奉行となって改鋳し費用を賄ったとするが、以降も豊臣家には多額の金が残っていたとも言われ、この逸話の真偽は定かではない。〔徳川実紀〕
三日
京極高次、没す(四十七歳)。子忠高にその遺領九万二千石余りを継がす。
『徳川実紀』にて、高次の経歴あり。高吉(「長門守高吉」)の嫡男。幼名は小法師丸。母は浅井久政(「浅井下野守祐政」)女。妻(初)は常高院と称し、茶々姫(「淀殿」)の妹で、江(「御台所」)の姉にあたる。姉(龍)ははじめ武田元明(「武田孫八郎元明」)の妻となり、後に秀吉(「豊臣関白秀吉公」)の寵を蒙り、松丸殿と称すとあり。〔徳川実紀〕
十一日
京極忠高(「京極若狭守忠高」/京極高次子、初の養嗣子、生母は吉原殿〔山田崎〕)、人質として江戸に下っていたが、父高次(「宰相高次」/初の夫)が歿したため、江戸を発ちその跡を継ぐ。〔徳川実紀〕
十四日
広橋局(広橋兼勝女)を始めとする女房五人、猪熊教利(「猪熊侍従教利」)、烏丸光広(「烏丸左大弁光広」)、飛鳥井雅賢(「飛鳥井少将雅賢」)、難波宗勝(「難波少将宗勝」)、大炊御門頼国(「大炊御門左中将頼国」)、花山院忠長(「花山院少将忠長」)、徳大寺宣久(「徳大寺少将宣久」)、松木宗信(「松木侍従宗信」)、兼安頼継(「兼保備後」)ら、乱行のため後陽成天皇の勅勘を蒙る。京都所司代板倉勝重(「板倉伊賀守勝重」)これを調査し、駿府城の徳川家康と相談し関係者を処分する。(いわゆる猪熊事件)
猪熊教利について、『徳川実紀』はその妻を前田利長女と伝える。〔徳川実紀〕
一日
寧(「高台院」)に預けられていた木下家定(「木下肥後入道法印家定」/寧の兄)の遺領(備中足守)が徳川家康に没収される。 『当代記』によると、徳川家では寧に預けられたのち、家定の長男勝俊(「少将勝俊」)に二万石、次男利房(「宮内少将利房」)に五千石を分与させる予定であったものが、寧の独断により勝俊だけに相続させようとしたため、家康がこれに怒り没収したとのこと。
但し、跡部氏曰く、この件に関して寧は前もって秀忠側近の本多正信に相談しており、寧の思う通りにしてよいという許可を得ていたものであった。〔当代記、徳川実紀、跡部信「高台院と豊臣家」〕
十六日
丹波国篠山城が落成する。この普請は慶長十三年四月より行われていたもの。翌年閏二月の名古屋城普請記事から、福島正則、池田輝政、浅野幸長ら北国西国大名らが人夫を出した天下普請であったことがわかる。〔徳川実紀・跡部信「高台院と豊臣家」〕
二十七日
木下家定の遺領の件で、孝蔵主が駿府に召しだされる。『徳川実紀』では大坂よりとなっているが、京都新城跡の寧の屋敷にいたものと思われる。〔徳川実紀・跡部信「高台院と豊臣家」〕
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※ []内は茶々姫の居場所
正月
[大坂城本丸奥御殿]一日
秀頼(「右府秀頼公」)、駿府城(「駿城」)に使いを送り、家康に歳首を賀す。〔徳川実紀〕
この月
秀頼(「大坂豊臣右府」)の沙汰で大仏殿が再建される。諸国浦々から良材を集め、西国中国四国九州の諸大名、二万石、一万石、五千石、あるいは三千石ずつを大坂へ送り、その費用を負担したという。大坂方よりの奉行として片桐且元(「片桐市正且元」)と森出雲守、江戸方より小島久右衛門、中村弥左衛門、正村次右衛門、清水久衛門、植木久兵衛が監使を務めた。 毎日工匠を数万人動員し、経費は日に千金以上かかったという。
『徳川実紀』では、秀吉(「太閤」)が備蓄した千枚分銅を石河勝政(「石河三右衛門」)、饗庭民部が奉行となって改鋳し費用を賄ったとするが、以降も豊臣家には多額の金が残っていたとも言われ、この逸話の真偽は定かではない。〔徳川実紀〕
五月
[大坂城本丸奥御殿]三日
京極高次、没す(四十七歳)。子忠高にその遺領九万二千石余りを継がす。
『徳川実紀』にて、高次の経歴あり。高吉(「長門守高吉」)の嫡男。幼名は小法師丸。母は浅井久政(「浅井下野守祐政」)女。妻(初)は常高院と称し、茶々姫(「淀殿」)の妹で、江(「御台所」)の姉にあたる。姉(龍)ははじめ武田元明(「武田孫八郎元明」)の妻となり、後に秀吉(「豊臣関白秀吉公」)の寵を蒙り、松丸殿と称すとあり。〔徳川実紀〕
十一日
京極忠高(「京極若狭守忠高」/京極高次子、初の養嗣子、生母は吉原殿〔山田崎〕)、人質として江戸に下っていたが、父高次(「宰相高次」/初の夫)が歿したため、江戸を発ちその跡を継ぐ。〔徳川実紀〕
七月
[大坂城本丸奥御殿]十四日
広橋局(広橋兼勝女)を始めとする女房五人、猪熊教利(「猪熊侍従教利」)、烏丸光広(「烏丸左大弁光広」)、飛鳥井雅賢(「飛鳥井少将雅賢」)、難波宗勝(「難波少将宗勝」)、大炊御門頼国(「大炊御門左中将頼国」)、花山院忠長(「花山院少将忠長」)、徳大寺宣久(「徳大寺少将宣久」)、松木宗信(「松木侍従宗信」)、兼安頼継(「兼保備後」)ら、乱行のため後陽成天皇の勅勘を蒙る。京都所司代板倉勝重(「板倉伊賀守勝重」)これを調査し、駿府城の徳川家康と相談し関係者を処分する。(いわゆる猪熊事件)
猪熊教利について、『徳川実紀』はその妻を前田利長女と伝える。〔徳川実紀〕
九月
[大坂城本丸奥御殿]一日
寧(「高台院」)に預けられていた木下家定(「木下肥後入道法印家定」/寧の兄)の遺領(備中足守)が徳川家康に没収される。 『当代記』によると、徳川家では寧に預けられたのち、家定の長男勝俊(「少将勝俊」)に二万石、次男利房(「宮内少将利房」)に五千石を分与させる予定であったものが、寧の独断により勝俊だけに相続させようとしたため、家康がこれに怒り没収したとのこと。
但し、跡部氏曰く、この件に関して寧は前もって秀忠側近の本多正信に相談しており、寧の思う通りにしてよいという許可を得ていたものであった。〔当代記、徳川実紀、跡部信「高台院と豊臣家」〕
十六日
丹波国篠山城が落成する。この普請は慶長十三年四月より行われていたもの。翌年閏二月の名古屋城普請記事から、福島正則、池田輝政、浅野幸長ら北国西国大名らが人夫を出した天下普請であったことがわかる。〔徳川実紀・跡部信「高台院と豊臣家」〕
二十七日
木下家定の遺領の件で、孝蔵主が駿府に召しだされる。『徳川実紀』では大坂よりとなっているが、京都新城跡の寧の屋敷にいたものと思われる。〔徳川実紀・跡部信「高台院と豊臣家」〕
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