Posted at 1912.05.08 Category : 編年史料
慶長十六(1611)年 辛亥
※ []内は茶々姫の居場所
二日
秀頼(「豊臣右大臣秀頼公」)、駿府城(「駿城」)に大野治房(「大野主馬治房」)を遣わし、家康に対し新年を賀す。〔徳川実紀(台徳院殿御実紀)〕
二十七日
後陽成天皇、政仁親王(「三宮(後水尾院)」)へ帝位を譲る。
秀頼(「豊臣右大臣秀頼公」)、二条城会見のためこの日大坂城を発ち、船で淀へ向かう。川の両岸は加藤清正(「加藤肥後守清正」)・浅野幸長(「浅野紀伊守幸長」)が弓隊・鉄砲隊を出し警護した。船内では饗宴が催されたり、家康からしばしば使いが出され、上洛の様子を伺い秀頼をもてなした。淀では徳川義直・頼宣が秀頼を出迎える。〔徳川実紀・清正記・清正行状奇〕
〇『清正記』による二条城会見の顛末
徳川家康(「家康公」)、二条城にて加藤清正と浅野幸長を饗応し、「秀頼公はもうすぐ成人されるだろう、目出度いことである。しかし自分は様々な疑いを掛けられているため、この頃秀頼公に会っていない。自分が秀頼公に会えるよう、二人から頼んでもらえないだろうか。御母公(茶々姫)はこれを案じるだろうが、義直(「右兵衛」)、頼宣(「常陸介」)を同道させるよう手配しよう」と頼んだという。二人はこれを受け、大阪にて利家(利長の誤りか)に相談すると、利長?は、「お二人が仰れば御母公(茶々姫)も納得されるでしょう」と清正・幸長に同道し、三人で秀頼・茶々姫に謁見した。「神かけて秀頼様の御身をお守りします。もし秀頼様に何かありましたら、私と左京(幸長)は命を以て責任を取りましょう」という清正の言葉に茶々姫は納得し、秀頼の二条城行きが決まった。
秀頼は清正の用意した川舟で上洛した。淀川の両岸には一方を清正勢、一方を幸長勢で固め、その道中を守護した。川舟では、清正が秀頼を様々に饗応し、家康(「家康公」)からも道中何度も使者がその様子を伺いに来た。京の人々がこれを見物に来ていたため、清正は左右の戸や窓を開き、秀頼の成人姿を京に知らしめたという。伏見からは二条城まで三里の道を供奉した。
二条城の玄関では家康が出迎え、互いに礼を言い合った。清正は終始秀頼の側を決して離れず、振舞のときも秀頼の傍に控えていた。家康と秀頼は互いに盃を交し、充分な時が経ったので、清正が宴の終焉を促すと、家康がそれに応じ、秀頼の成人を祝し様々な進物を交したのち、秀頼が座を立った。家康はまた玄関まで見送り、秀頼が輿に乗るまで見届けた。清正は徒歩でこれに供奉し、伏見からはまた舟で淀川を上り、大坂へ無事帰城した。
幸長(「左京大夫幸長」)は、秀頼が伏見に到着したのち、体調を崩して屋敷に帰り、洛中は供奉しなかった。秀頼・家康は清正の働きに感謝し、清正に熊本に帰ることを許した。清正は貴国の道中熱病を発したという。
〇『武徳大成記』による二条城会見の顛末
徳川家康(「大御所」)、織田長益(「織田有楽斎」)を通じ、成長した秀頼に久しぶりに会いたいので、京で対面したいと伝える。秀頼の妻千は家康の孫であり、元より親戚であるので、両家のよしみがいよいよ睦まじくなるだろうと世の人々は安心し、天下泰平を喜んだという。
秀頼は父秀吉(「故太閤」)死後、慶長四年正月十日に茶々姫(「母」)とともに伏見城から大坂城に移った後は一度も城外へ出たことがなかった。茶々姫(「生母淀殿」)は秀吉死後の世の中の動向を憂い、秀頼が大坂城を出たならばどんな危険があるか分からないといって上洛を拒んでいた。それを聞いた寧(「大政所」)が自ら大坂城に赴き、豊臣恩顧の諸大名も密かに秀頼・茶々姫母子をに通じ、今家康に逆らえば、それこそ秀頼と茶々姫の身に危険が及び兼ねないと説得した。茶々姫は彼らの言葉を聞き、秀頼の上洛を承諾したという。
二十八日(快晴)
秀頼(「秀頼公」)、上洛し二条城にて徳川家康(「大御所」)と会見する。 義演いわく、秀頼七歳のとき伏見城から大阪城に移徙の後初めての上洛という。 鳥羽まで家康の子二人(徳川義直・頼宣)が迎え、歴々の大名衆もまた出迎える。 二条城にて家康と会見後、豊国神社へ参拝し、方広寺大仏作事を監督した後、伏見の加藤清正(「加藤主計」)邸に入る。 舟にて伏見より大坂に帰還する。〔義演准后日記・光豊公記〕
二十九日(雨)
義演、秀頼の上洛祝いに井内経紹(「大蔵卿」)を遣わし、折を進上する。 義演、「大明神御加護無疑者歟、珍重/\」と感想を記す。〔義演准后日記〕
一日(雨)
井内経紹(「大蔵卿」)、帰寺する。経紹いわく、片桐且元(「市正」)と大蔵卿局は留守とのこと。〔義演准后日記〕
七日
浅野長政(「浅野弾正少弼長政」)、没す。(同月六日の説あり、『徳川実紀』では『寛永系図纂』に従い慶長十五年とする)
『徳川実紀』に経歴あり。安井重継(「安井弥兵衛重継」)の子で、織田家弓役浅野長勝(「又右衛門長勝」)の養子となり浅野家を継ぐ。長勝の妻(七曲)は木下家利(「木下七郎兵衛家利」)次女で、その姉(朝日局)は杉原定利(杉原助左衛門)の妻。定利と朝日局の二人の娘は、姉(寧)が豊臣秀吉(「木下藤吉郎秀吉」)の妻となり、妹(やや)が浅野長政の妻となったため、浅野長政は豊臣秀吉の相聟として豊臣家に重きをなした。〔家忠日記、徳川実紀〕
二十二日(雨)
近衛信尹、島津家久(「鹿児島少将」)らに秀頼上洛について書状を送る。いわく、家康(「大御所」)は譲位・即位のため上洛していたこと、 更に秀頼(「秀頼公」)の上洛に国民が喜んでいるとのこと。〔薩摩旧記〕
二十四日
丑刻(午前二時ごろ)、加藤清正没す。五十歳(五十三歳とも)。大木土佐守、金官(朝鮮人)これに殉死する。文英清韓、哀悼の詞を捧げて、その生前の知己に報いる。〔清正記、清正行状奇、東福寺誌(輓詞並序)〕
二十日(晴)
江(「御台様」)、江戸逗留中の舟橋秀賢より進物を受ける。秀賢、佐久間安政(「備前」)家臣に案内される。 進物の内容は、江へ箔貼帯五筋、侍女京殿へ帯一筋。〔慶長日件録〕
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※ []内は茶々姫の居場所
一月
[大坂城本丸奥御殿]二日
秀頼(「豊臣右大臣秀頼公」)、駿府城(「駿城」)に大野治房(「大野主馬治房」)を遣わし、家康に対し新年を賀す。〔徳川実紀(台徳院殿御実紀)〕
三月
[大坂城本丸奥御殿]二十七日
後陽成天皇、政仁親王(「三宮(後水尾院)」)へ帝位を譲る。
秀頼(「豊臣右大臣秀頼公」)、二条城会見のためこの日大坂城を発ち、船で淀へ向かう。川の両岸は加藤清正(「加藤肥後守清正」)・浅野幸長(「浅野紀伊守幸長」)が弓隊・鉄砲隊を出し警護した。船内では饗宴が催されたり、家康からしばしば使いが出され、上洛の様子を伺い秀頼をもてなした。淀では徳川義直・頼宣が秀頼を出迎える。〔徳川実紀・清正記・清正行状奇〕
〇『清正記』による二条城会見の顛末
徳川家康(「家康公」)、二条城にて加藤清正と浅野幸長を饗応し、「秀頼公はもうすぐ成人されるだろう、目出度いことである。しかし自分は様々な疑いを掛けられているため、この頃秀頼公に会っていない。自分が秀頼公に会えるよう、二人から頼んでもらえないだろうか。御母公(茶々姫)はこれを案じるだろうが、義直(「右兵衛」)、頼宣(「常陸介」)を同道させるよう手配しよう」と頼んだという。二人はこれを受け、大阪にて利家(利長の誤りか)に相談すると、利長?は、「お二人が仰れば御母公(茶々姫)も納得されるでしょう」と清正・幸長に同道し、三人で秀頼・茶々姫に謁見した。「神かけて秀頼様の御身をお守りします。もし秀頼様に何かありましたら、私と左京(幸長)は命を以て責任を取りましょう」という清正の言葉に茶々姫は納得し、秀頼の二条城行きが決まった。
秀頼は清正の用意した川舟で上洛した。淀川の両岸には一方を清正勢、一方を幸長勢で固め、その道中を守護した。川舟では、清正が秀頼を様々に饗応し、家康(「家康公」)からも道中何度も使者がその様子を伺いに来た。京の人々がこれを見物に来ていたため、清正は左右の戸や窓を開き、秀頼の成人姿を京に知らしめたという。伏見からは二条城まで三里の道を供奉した。
二条城の玄関では家康が出迎え、互いに礼を言い合った。清正は終始秀頼の側を決して離れず、振舞のときも秀頼の傍に控えていた。家康と秀頼は互いに盃を交し、充分な時が経ったので、清正が宴の終焉を促すと、家康がそれに応じ、秀頼の成人を祝し様々な進物を交したのち、秀頼が座を立った。家康はまた玄関まで見送り、秀頼が輿に乗るまで見届けた。清正は徒歩でこれに供奉し、伏見からはまた舟で淀川を上り、大坂へ無事帰城した。
幸長(「左京大夫幸長」)は、秀頼が伏見に到着したのち、体調を崩して屋敷に帰り、洛中は供奉しなかった。秀頼・家康は清正の働きに感謝し、清正に熊本に帰ることを許した。清正は貴国の道中熱病を発したという。
〇『武徳大成記』による二条城会見の顛末
徳川家康(「大御所」)、織田長益(「織田有楽斎」)を通じ、成長した秀頼に久しぶりに会いたいので、京で対面したいと伝える。秀頼の妻千は家康の孫であり、元より親戚であるので、両家のよしみがいよいよ睦まじくなるだろうと世の人々は安心し、天下泰平を喜んだという。
秀頼は父秀吉(「故太閤」)死後、慶長四年正月十日に茶々姫(「母」)とともに伏見城から大坂城に移った後は一度も城外へ出たことがなかった。茶々姫(「生母淀殿」)は秀吉死後の世の中の動向を憂い、秀頼が大坂城を出たならばどんな危険があるか分からないといって上洛を拒んでいた。それを聞いた寧(「大政所」)が自ら大坂城に赴き、豊臣恩顧の諸大名も密かに秀頼・茶々姫母子をに通じ、今家康に逆らえば、それこそ秀頼と茶々姫の身に危険が及び兼ねないと説得した。茶々姫は彼らの言葉を聞き、秀頼の上洛を承諾したという。
二十八日(快晴)
秀頼(「秀頼公」)、上洛し二条城にて徳川家康(「大御所」)と会見する。 義演いわく、秀頼七歳のとき伏見城から大阪城に移徙の後初めての上洛という。 鳥羽まで家康の子二人(徳川義直・頼宣)が迎え、歴々の大名衆もまた出迎える。 二条城にて家康と会見後、豊国神社へ参拝し、方広寺大仏作事を監督した後、伏見の加藤清正(「加藤主計」)邸に入る。 舟にて伏見より大坂に帰還する。〔義演准后日記・光豊公記〕
二十九日(雨)
義演、秀頼の上洛祝いに井内経紹(「大蔵卿」)を遣わし、折を進上する。 義演、「大明神御加護無疑者歟、珍重/\」と感想を記す。〔義演准后日記〕
四月
[大坂城本丸奥御殿]一日(雨)
井内経紹(「大蔵卿」)、帰寺する。経紹いわく、片桐且元(「市正」)と大蔵卿局は留守とのこと。〔義演准后日記〕
七日
浅野長政(「浅野弾正少弼長政」)、没す。(同月六日の説あり、『徳川実紀』では『寛永系図纂』に従い慶長十五年とする)
『徳川実紀』に経歴あり。安井重継(「安井弥兵衛重継」)の子で、織田家弓役浅野長勝(「又右衛門長勝」)の養子となり浅野家を継ぐ。長勝の妻(七曲)は木下家利(「木下七郎兵衛家利」)次女で、その姉(朝日局)は杉原定利(杉原助左衛門)の妻。定利と朝日局の二人の娘は、姉(寧)が豊臣秀吉(「木下藤吉郎秀吉」)の妻となり、妹(やや)が浅野長政の妻となったため、浅野長政は豊臣秀吉の相聟として豊臣家に重きをなした。〔家忠日記、徳川実紀〕
二十二日(雨)
近衛信尹、島津家久(「鹿児島少将」)らに秀頼上洛について書状を送る。いわく、家康(「大御所」)は譲位・即位のため上洛していたこと、 更に秀頼(「秀頼公」)の上洛に国民が喜んでいるとのこと。〔薩摩旧記〕
六月
[大坂城本丸奥御殿]二十四日
丑刻(午前二時ごろ)、加藤清正没す。五十歳(五十三歳とも)。大木土佐守、金官(朝鮮人)これに殉死する。文英清韓、哀悼の詞を捧げて、その生前の知己に報いる。〔清正記、清正行状奇、東福寺誌(輓詞並序)〕
十月
[大坂城本丸奥御殿]二十日(晴)
江(「御台様」)、江戸逗留中の舟橋秀賢より進物を受ける。秀賢、佐久間安政(「備前」)家臣に案内される。 進物の内容は、江へ箔貼帯五筋、侍女京殿へ帯一筋。〔慶長日件録〕
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