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正栄尼

生年: 不詳
没年: 慶長二十(1615)年五月七日

名: なか
「正永ハ御中ト云シ女ナリ内蔵介母也」〔武功雑記〕

称: おなかの御方(おなあの御方)?→正栄尼(夫の死去後、落飾し尼となり、「正栄」と号す)

・「正ゑいさま」(『本光国師日記』)
・「庄栄」、「正栄 渡邊内蔵助母」(『土屋知貞私記』)
・「正永」〔浅井一政自記、豊内記〕
・「正栄殿」(『続撰清正記』)
・「永原正栄尼」(『難波戦記』)
・「渡邊正栄様」(『清涼史論』)
・「正栄尼 渡邊内蔵助母」、「渡邊内蔵助母 正永尼」(『駿府記』)
「永原之正栄尼」、「衣原正栄尼」(『元寛日記』)
・「正栄尼」(『慶元記』)
・「正永」(『慶長見聞録』)
・「少栄」(『北川遺書記』)
・「正栄尼」(『駿府政事録』)
・「正栄尼」(『編年大略』)
・「正栄」(『落穂集』)
・「正栄」(「大坂物語」)
・「中原常永」、「渡邊内蔵介母正永」〔個人蔵大坂夏の陣図(江戸時代後期)〕

肩書:「大坂奥方女臈頭云随一」〔天正記聞〕



祖父: 永原仁左衛門〔天正記聞〕

母: 「永誉寿慶大姉 渡辺正栄並永原福左衛門母 西暢真光妻」〔清凉寺過去帳〕
・明智光秀前妻〔天正記聞〕

実父:
・明智光秀〔天正記聞〕

正栄尼の素性


「天正記聞」

光秀公前妻者、江州永原之城主永原大炊助嫡永原仁左衛門娘也、此腹生女子、母子共帰故郷、此女子成長而、秀吉家臣嫁渡部宮内少輔、生渡部内蔵助、宮内少輔死後、内蔵助母成尼、号渡部正栄、大坂奥方女臈頭云随一、内蔵助儀於大坂冬夏之御軍法砌、御相談之席、軍術槍達人有武功、大坂落城之節、出城外戦、見掛城火、急帰城中、正栄妻子共入千畳敷、然處正栄云、武士之最後者、後世之評判先祖為面目間、内蔵助自害之體見届度由、内蔵助聞之悦、即席子共刺殺、腹十文字切、正栄大感介錯、内蔵助者、山城国一来寺城主、八万石、渡部出雲守孫、同宮内少嫡子也、正栄向娵云、其方者田丸城主之息女、我身者天下取之娘、於最後何掛人手乎、尤領掌而、両人共令自害、飛入焔中、傍人視之、雖為女身、勇将之子孫者、末後異常人、可為諸人之手本、甚感之、内蔵助妻者勢州田丸城主四万五千石、牧村兵部大輔娘也、正栄亦有娘、ツルト云フ、



明智光秀の前妻は、近江永原城主大炊助の嫡男仁左衛門の女である。
光秀とこの女の間に女子がいた。母子共に帰郷して女子は母の故郷で成長した。
その後、秀吉の家臣である渡部宮内少輔(渡辺昌)に嫁ぎ、渡部内蔵助(渡辺糺)を産んだ。夫の死後、糺の母は尼となり正栄と号し、茶々姫(「大坂奥方」)の一番の女房頭であったという。
糺は大坂の陣において秀頼の相談相手であり、また軍術や槍の達人であり、武功を重ねた。大坂落城時には、城を出て戦ったが、城に火がついたことを見ると急ぎ城へ帰った。
千畳敷には正栄と糺の妻子がおり、正栄はが糺に向かって、「武士の最期は後世の評判、先祖の面目となる。わたしが糺の自害の様子を見届けましょう」といった。これを聞いて糺は悦び、子どもたちを刺したのち自ら腹を十文字に掻き切った。正栄は大変感じ入り、糺を介錯した。
糺は山城国の一来寺(一乗寺)城八万石の城主であった。渡辺出雲守の孫で、その子昌の嫡男にあたる。
正栄は糺の妻にむかって、「あなたは田丸城主の娘、わたしは天下取り(光秀)の娘。最期は他人の手にかかることはあってはならない」と言った。妻は納得し、手を合わせると二人ともに城を焼く焔に身を投じて自害した。
そばで見ていた者は、「女とは言ってもさすが勇将の子孫、最期も普通の人とは違う。皆は彼女たちを手本にすべきだ。」と大変感じ入ったという。
糺の妻は伊勢田丸四万五千石の城主牧村兵部大輔(利貞)の娘である。
正栄にはまた娘もおり、彼女の名をツルと言った。



「牧村兵部大輔」こと牧村利貞は春日局の側近祖心尼の父に当たる人ですが、田丸城主ではないそうです。(http://www.murocho.com/aji/koboku/koboku4.html)「田丸城主」が正しいならば、糺の妻は稲葉道通の娘ということになります。

まとめてみました。

青字は『清涼寺過去帳 より』)
永原大炊助 ━━ 仁左衛門 ━━ 明智光秀前妻 ━━ 正栄尼(往相院西誉正栄大姉

渡辺出雲守 ━━ 宮内少輔(昌/源誉道把居士/妻:正栄尼〔往相院西誉正栄大姉〕) ━━ 内蔵助(糺)、正心院殿宝樹水庵大姉(ツル?)、永誉寿慶大姉

糺(妻:牧村利貞or稲葉道通女)━━ 守、量寿栄薫信尼雲龍童子
                                     

某書で、正栄尼が浅井長政の娘であると受け取れる文章に悩んで数年…
正栄尼がまさか明智光秀の娘だとは思いもよりませんでした。

他の史料に見えないのは、やはり光秀の娘という経歴を当時はおおっぴらにはしていなかったのでしょうね。とはいえ、さすがに主である茶々姫がこれを知らなかったということはありえません。
当時の世情を考えると、さすがに光秀の娘であると出自を偽称するということはないと思いますが…

鐘銘事件の際、茶々姫の乳母である大蔵卿局、徳川家配下に家族のいる二位局とともに駿府へ使者として下ったのは、この血縁によるものもあったのでしょう。

細川忠興の妻玉(ガラシャ)は、自分は光秀の娘であることを憚って(正栄尼の異母妹ということになりますね)、大名夫人たちが茶々姫に面会する際に遠慮したという史料もありますが、茶々姫が明智光秀の縁者を遠ざけていたということはなかったことがわかります。
同時に、茶々姫のそばで育った江が福(春日局)を明智光秀の血縁だからと言って疎んでいたというのもまた事実ではないこともわかります。



養父?:
「西暢真光信士 江州永原住渡辺正栄並永原福左衛門父 石塔有之」〔清凉寺過去帳〕
清涼寺墓地に墓地があったようですが現在は不明。


「永原福左衛門」〔清凉寺過去帳〕




夫: 渡邊宮内少輔

渡邊宮内少輔「昌」(渡邊出雲守告の次男)。もとは山城国田中の人。出雲守は松永久秀に仕え、宮内少輔は秀吉に仕えたという。〔寛政重修諸家譜〕
渡邊宮内少輔「登」〔本朝武芸小伝〕
渡邊「民部少輔」、摂津の人〔続武家閑談〕
「源誉道抱禅定門 渡邊宮内 内蔵助父」〔諸寺過去帳(高野山過去帳)〕
「源誉道把居士 渡辺宮内正栄夫(二十日)」〔清涼寺過去帳〕

▽ 清凉寺 渡辺宮内墓所
※但し、没日など早崎兵庫〔「蓮池院源叟休把居士」〕と混同が見られる
渡邊宮内少輔墓


子:
・渡辺糺
「源大静閑信士 渡邊内蔵助」(『清凉寺過去帳』)
秀頼の槍術師範〔本朝武芸小伝〕
正栄尼が介錯した
近江へ逃れたという説がある〔続武家閑談〕

▽ 清凉寺 渡辺糺墓所
渡邊糺墓

糺の妻
・くう「徳芳妙寿禅定尼 慶長十四年二月一日/渡辺権之助内クウ」
・伊勢田丸四万五千石の城主牧村兵部大輔(利貞)の娘〔天正記聞〕
・祖心尼?(稲葉家の記録)

孫(糺の子):
・守(権兵衛)
…大坂落城時、乳母に助けられ、南禅寺の僧侶となる。後に還俗して徳川綱重に仕える〔続武家閑談、寛政重修諸家譜〕
・量寿栄薫信尼〔清涼寺過去帳〕
・雲龍童子〔清涼寺過去帳〕


・ツル
「正心院殿宝樹水庵大姉 万治四年二月(二十一日)/往相院女道三玄鑑室」〔清涼寺過去帳〕
「正栄亦有娘、ツルト云フ、」〔天正記聞〕

娘婿・今大路玄鑑
「前道三亀渓玄鑑法印 寛永三年九月十九日」〔清凉寺過去帳〕
・親純 兵部大輔。江が和子を産む際、その難産を助けた。江の臨終の際にも病を押して駆けつけようとするも、寛永三年九月十九日、道中で病死。享年五十歳。〔寛永諸家系図伝〕
子に祐智(愛宕教学院)、道三玄鎮(親昌)、および女子四人あり〔寛永諸家系図伝〕

▽ 清凉寺 今大路玄鑑、ツル夫妻墓地
渡邊ツル夫妻墓

娘②
・祐清
「以春軒和渓宗仲禅者 慶長十一年九月(八日)/浦野祐清夫渡辺正栄一門也」
「廓雲了性童子 丙午年(慶長十一年?)八月(十九日)/浦野祐清息往想院ノ孫」

娘③
・永誉寿慶大姉(慶長十六年六月没)〔清涼寺過去帳〕



彼女が正栄尼という名前で登場する最も早い史料は、一次史料ではありませんが『続撰清正記』で、慶長十六年四月二日に登場しています。

その後の活躍の割には、それ以前に名前が全く見えないため、この辺りが夫の死と正栄尼の出家の時期なのではないだろうか…と推測しています。

正栄尼は大坂の陣の最中糺とともに戦火に歿しますが、孫(渡辺守/「陽春院徳林徹居士 元禄三年正月四日 渡辺内蔵助権兵衛正栄孫」〔清凉寺過去帳〕)が乳母の機転で生還したこともあって、大坂方の戦没者の中ではかなり手厚く供養されています。



戒名:
「往想院西誉正栄 永原氏 渡邊宮内室 内蔵助等母 五月七日自殺於大坂城」〔諸寺過去帳(高野山過去帳)〕
「渡邊内蔵助源尚 宮内少輔某男、元和元年五月七日、於大坂戦死、源太静間
 源尚母 同日自殺、往想院西誉正栄」〔諸寺過去帳〕
「往相院西誉正栄大姉 慶長廿年五月七日大坂討死 渡辺内蔵助母 宮内妻 祠堂有之」〔清涼寺過去帳〕
「往想院西誉正栄大姉」〔清涼史論、伝渡辺正栄尼画像〕

・清凉寺位牌
(表面)「往想院西誉正栄大姉/岳樹清光(永原忠左衛門)/源太静閑(渡辺糺)/量寿栄薫(糺女) 各位」
(裏面)「慶長廿年五月七日/大阪討死/当寺大旦那」

▽ 清凉寺 正栄尼墓所
正栄尼墓



正栄尼の周りには、実家である永原の一族が集っていたようで、渡邊氏だけではなく永原氏も少なくない人が正栄尼に殉じています。

渡邊氏:
「源大静閑信士 渡邊内蔵助」、「量寿栄薫信尼 内蔵助女」、「雲龍童子 同上息」〔清涼寺過去帳〕
「雲龍童子 渡邊内蔵助子息 五月八日」〔諸寺過去帳(高野山過去帳)〕

永原氏:
「獄樹清光信士 永原忠左衛門」、「棄大良雲信尼 忠左衛門妻」、「永宏常有信士 忠左衛門息忠兵衛」、「隆巌秀知信尼 忠兵衛妻」、「性翁高月信士 永原福太郎」



略年表

・慶長3年
3月15日、醍醐の花見。
「桜花かかるみゆきに相生の 松も千歳を君にひかれて   なか」
「君か代にあふうれしさをみゆき山 花やいろ香にいでてみすらむ   なか」
8月18日、豊臣秀吉没。

・慶長19(1614)年
8月、方広寺の鐘銘問題に際し、大蔵卿局らとともに駿府へ下向する。
12月、大坂冬の陣の講和の際、徳川家康のもとに再度の血判を求めに常高院や二位局とともに使者に立つ。

・慶長20、元和元(1615)年
大坂夏の陣がおこる。
5月7日、糺を介錯し自害する。
某日、清涼寺にて葬式が営まれる〔清涼史略〕

・元和3(1618)年
5月7日、三回忌法要が栖霞寺で営まれる〔清涼史略〕

・元和7(1622)年
5月7日、七回忌法要が清涼寺で営まれる〔清涼史略〕


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