Posted at 1970.01.01 Category : 女官/女房/侍女
生没年: 不詳(大坂の陣を生き延びたのは確かです)
父:各務兵庫助元正 (各務氏は五女)
「武功雑記」によると、各務氏の実家は森家の筆頭家老の家柄でした。 父「各務兵庫」こと各務兵庫助元正も長可・忠政の代の家老で美濃岩村城の城代です。 元正の時代に行われた改築・検地は有名なようです。 「鬼兵庫」と呼ばれ、蒲生氏郷からの再三のラブコールもはねつけたとか。
兄:
四郎兵衛 …1608年に自害
藤兵衛 …妻は名護屋山三郎の妹
姉:
紀伊(箭室妙智信尼)…森重政(伊豆守)妻。1633年に死去。
竹光伊豆妻 …夫は大坂衆。大坂落城後、枚方にて切腹。
田中七郎兵衛妻 …七郎兵衛は丹後の人
各務勝太夫妻 …勝太夫は美作の人
夫:京極高知
子:
満吉(幼名:辰千代、称:源三郎、三左衛門、官職:式部、田中姓を称す 〔寛政重修諸家譜』〕)
澤良政(図書)妻〔武功雑記、寛政重修諸家譜〕
各務氏は茶々姫の侍女としてほとんど知られていません。 今のところ唯一各務氏の足跡が見える「武功雑記」から彼女の逸話を拾ってみましょう。
茶々姫の侍女であった各務氏は大坂の陣前のある日、茶々姫に呼び出されます。 そこで姫は各務氏に対し、あたら若い命を散らすことを不憫に思い、大坂を去るように命じました。 しかし各務氏はその申し出を固辞し、小脇差を腰に差して覚悟の程を示し、茶々姫に仕え続けたといいます。
さすが「鬼兵庫」の娘らしい各務氏の勇敢さは言うまでもなく、侍女に優しかったという茶々姫を裏付けるような逸話です。
その出自はもとよりこの逸話から、各務氏は茶々姫から直々に対面を許される高い地位にあったことも分かります。
上記のように、大坂の陣に際しても退去しない意思を示した各務氏ですが、 実際は大坂落城後に京極高知の側室となったといいます(武功)。
京極家は大坂の陣において豊臣家と相対せざるをえない立場でしたが、 高知の姉は秀吉の妻松の丸殿(龍)、義姉は茶々姫の妹初(常高院)という深い間柄でした。 しかも秀頼の息子国松丸の養育は京極家で引き受け、大坂の陣に大坂衆として参戦した茶々姫や初姫の弟喜八郎(作庵) もまた京極家で引き受け面倒を引き受けています。
また、同じ侍女の間柄である菊(山口氏)も大坂落城後松の丸殿を頼ったという記録を「おきく物語(浪華城菊物語)」に残しています。
残念ながら時勢には逆らえず、京極家で育てた国松丸を京極家の手で捕らえる結果となりましたが、 大坂城から国松丸を落とす際に、茶々姫は各務氏に託すという形をとって京極家に逃がしたのかもしれません。 ただ逃げろ、というだけでは逃げなかった各務氏の勇敢さを買う形で京極家の龍や初のもとに逃がし、 その元にいるうちに高知と知り合い、娘を儲けたという流れだったかもしれません。
国松丸との関わりは私の想像ですが、忠義の固い各務氏が結果的に大坂落城後も生き延びたという流れと周囲の事情を鑑みるとこの考えはあながち間違っていないように思うのです。
・慶長5(1600)年
父各務元正死去。
・慶長13(1608)年
10月5日、兄四郎兵衛自害。
・慶長19(1614)年ごろ
茶々姫に退去を命じられるが固辞。
・慶長20年(1615)年以降
大坂の陣終結。
その後、京極家に縁付き高知の側室となる。
〔ひとりごと〕
『大日本史料』を読んでいてこの史料に出会ったときに鳥肌が立ちました。 各務氏の忠義ももちろんですが、姫の真実の一端に触れたような気がしました。
原文では『淀殿不便ヲ加ヘ退カシメント…』という記事なので、現代文風に解釈すると逆の解釈をしがちですが、 「不便を加える」は「不憫に思う」という解釈になります。
→女官/女房/侍女 目次一覧へ
各務家
父:各務兵庫助元正 (各務氏は五女)
「武功雑記」によると、各務氏の実家は森家の筆頭家老の家柄でした。 父「各務兵庫」こと各務兵庫助元正も長可・忠政の代の家老で美濃岩村城の城代です。 元正の時代に行われた改築・検地は有名なようです。 「鬼兵庫」と呼ばれ、蒲生氏郷からの再三のラブコールもはねつけたとか。
兄:
四郎兵衛 …1608年に自害
藤兵衛 …妻は名護屋山三郎の妹
姉:
紀伊(箭室妙智信尼)…森重政(伊豆守)妻。1633年に死去。
竹光伊豆妻 …夫は大坂衆。大坂落城後、枚方にて切腹。
田中七郎兵衛妻 …七郎兵衛は丹後の人
各務勝太夫妻 …勝太夫は美作の人
夫:京極高知
子:
満吉(幼名:辰千代、称:源三郎、三左衛門、官職:式部、田中姓を称す 〔寛政重修諸家譜』〕)
澤良政(図書)妻〔武功雑記、寛政重修諸家譜〕
茶々姫の侍女
各務氏は茶々姫の侍女としてほとんど知られていません。 今のところ唯一各務氏の足跡が見える「武功雑記」から彼女の逸話を拾ってみましょう。
茶々姫の侍女であった各務氏は大坂の陣前のある日、茶々姫に呼び出されます。 そこで姫は各務氏に対し、あたら若い命を散らすことを不憫に思い、大坂を去るように命じました。 しかし各務氏はその申し出を固辞し、小脇差を腰に差して覚悟の程を示し、茶々姫に仕え続けたといいます。
さすが「鬼兵庫」の娘らしい各務氏の勇敢さは言うまでもなく、侍女に優しかったという茶々姫を裏付けるような逸話です。
その出自はもとよりこの逸話から、各務氏は茶々姫から直々に対面を許される高い地位にあったことも分かります。
大坂の陣の後
上記のように、大坂の陣に際しても退去しない意思を示した各務氏ですが、 実際は大坂落城後に京極高知の側室となったといいます(武功)。
京極家は大坂の陣において豊臣家と相対せざるをえない立場でしたが、 高知の姉は秀吉の妻松の丸殿(龍)、義姉は茶々姫の妹初(常高院)という深い間柄でした。 しかも秀頼の息子国松丸の養育は京極家で引き受け、大坂の陣に大坂衆として参戦した茶々姫や初姫の弟喜八郎(作庵) もまた京極家で引き受け面倒を引き受けています。
また、同じ侍女の間柄である菊(山口氏)も大坂落城後松の丸殿を頼ったという記録を「おきく物語(浪華城菊物語)」に残しています。
残念ながら時勢には逆らえず、京極家で育てた国松丸を京極家の手で捕らえる結果となりましたが、 大坂城から国松丸を落とす際に、茶々姫は各務氏に託すという形をとって京極家に逃がしたのかもしれません。 ただ逃げろ、というだけでは逃げなかった各務氏の勇敢さを買う形で京極家の龍や初のもとに逃がし、 その元にいるうちに高知と知り合い、娘を儲けたという流れだったかもしれません。
国松丸との関わりは私の想像ですが、忠義の固い各務氏が結果的に大坂落城後も生き延びたという流れと周囲の事情を鑑みるとこの考えはあながち間違っていないように思うのです。
略年表
・慶長5(1600)年
父各務元正死去。
・慶長13(1608)年
10月5日、兄四郎兵衛自害。
・慶長19(1614)年ごろ
茶々姫に退去を命じられるが固辞。
・慶長20年(1615)年以降
大坂の陣終結。
その後、京極家に縁付き高知の側室となる。
〔ひとりごと〕
『大日本史料』を読んでいてこの史料に出会ったときに鳥肌が立ちました。 各務氏の忠義ももちろんですが、姫の真実の一端に触れたような気がしました。
原文では『淀殿不便ヲ加ヘ退カシメント…』という記事なので、現代文風に解釈すると逆の解釈をしがちですが、 「不便を加える」は「不憫に思う」という解釈になります。
→女官/女房/侍女 目次一覧へ
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