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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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伊茶局

 
生年: 不詳
没年: 慶長20(1615)年5月8日?(この頃40代前後か)

称:
「いちや」、「いちや局」、「いちや方」〔義演准后日記〕
「伊茶局」〔難波戦記〕
「御いちや」〔輝資卿記、北川遺書記〕
「御いちゃの御方」〔資勝卿記〕

肩書:
慶長三年「大蔵卿局内いちや」〔義演准后日記〕

子:矢野五左衛門

伊茶局の出自は詳しくは分かりません。
しかし天和4(1684)年に書かれたいちやの曾孫五左衛門による書状にその一部が残されています。〔譜牒余録後編(三十八 処士之下 矢野五左衛門条)〕
曰く、伊茶局は五左衛門の祖父五左衛門の母だといいます。
伊茶局の息子、矢野五左衛門は大坂城で秀頼の勘定頭を務め、知行千石と与力十騎、足軽五十人を賜りました。
片桐且元が大坂を退去する際、その知行や金銀米銭諸道具一切を受け取った勘定頭である五左衛門でした。

『義演准后日記』の慶長9年6月5日条・同年9月15日条には五左衛門が伊茶局の息子として義演から進物を受けとっています。 また、慶長13年3月19日には浅野長晟の使者として、秀頼の病(疱瘡)平癒のための大神楽奏請のため奔走していることからこの時期には浅野家に仕えていたようです。

大坂落城後の元和元年(「慶長二十年」)十月、板倉勝重に駿府へ登城するよう命じられます。
駿府で勝重の次男重昌は伊丹康勝に命じて五左衛門が管轄していた大坂城の資産について尋問をしました。
その答えを家康から労われ、以後秀忠に出仕するよう命を受けます。
その後家康の放鷹に同行した際、重昌に上方に残っている(それまで人質になっていたか)妻子の行方を尋ねられ、このときに許されたといいます。

翌年(元和2年)また五左衛門は重昌によって駿府に呼び出されましたが、その時期は家康の死去と重なります。
そのごたごたで重昌の用向きは後日ということになりましたが、五左衛門はその夏に同地で謎の頓死を遂げています。

跡を継いだ五左衛門の息子弥平次は脚気を患い歩けず、若死にしたといいます。
その子が書状を書いたいちやには曾孫にあたる五左衛門です(年齢はこの手紙の日付から推定しました)。



大蔵卿局の側近


伊茶局の名は、『義演准后日記』では慶長三年四月七日条、『北野社家日記』では慶長四年七月八日が初出です。
以降、大蔵卿局の取次ぎとして義演や松梅院禅昌の記録に頻出しています。

阿古御局(阿古)の幼名が菊というように、伊茶局が彼女の幼名とは限らないですが、 おそらく幼名のまま候名としていることから、公的な女官としてではなく豊臣家の私的な侍女でしょう。
五左衛門の手紙によると、大蔵卿局と同様年寄分の女中であったといいます。
大蔵卿局付きの侍女であったようですが、公的にも中臈女官の扱いであったようです。



大坂の陣とその最期


先に紹介した曾孫五左衛門の手紙によると、方広寺鐘銘の件で大蔵卿局が駿府へ弁明に行く際、伊茶局も同行していたようです。
そこで半年ほど留められられたことが記されています。
伊茶局の子五左衛門は家康に褒美を賜る際、母の件を持ち出して辞退したそうです。

その後、大坂の陣で子五左衛門はどういった経緯でか大坂の陣を生き残りましたが伊茶局は茶々姫に殉じたものと思われます。
「難波戦記」(「伊茶局」)、「北川遺書記」(「御いちや」/※女房たち数十人自害との記載)の二書から確認できる他、 いちやの名を記していない史料でも「駿府記」には三十二人、「大坂御陣覚書」には三十余人、「舜旧記」には二十人ほどが自害したとの記載があります。
大概の記録には高級侍女の名しか記されていないものの、自害した侍女の中にいちやがいたことは間違いないと思われます。

というわけで、いちやもまた茶々姫と共に自害した「三十二義士」の一人でしょう。



略年表



・慶長3(1598)年
3月15日、醍醐の花見に参加?
「もろ人のおなし心もうちとけて ながむる花も幾千世かへん いちやこ」
(楠戸義昭氏『醍醐寺の謎』では伊茶局としているが同一人物?)
4月1日、大蔵卿局の取次ぎとして義演を初応対。
8月18日、秀吉病没。

・慶長4(1599)年
7月8日、大蔵卿局の取次ぎとして松梅院を初対応。

・慶長12(1607)年
12月28日、駿府城火災の見舞いのため秀頼に命じられ駿府へ赴く。

・慶長19(1614)年
8月29日、茶々姫の使者として大蔵卿局に従い駿府に赴く。

・慶長20年(1615)年
5月8日早朝、秀頼・茶々姫・大蔵卿局らに殉ずる。

・天和4年(1684)年
2月、矢野五左衛門、祖父五左衛門・父弥平次・曾祖母伊茶局について書状を認める。

〔ひとりごと〕
秀吉歿後の姫を追いかけるのに、毎月秀頼の祈祷に来ていた義演准后の記録は見逃せないのですが、 その中にちょくちょくこの「いちや」さんが登場して、一体何者だろうかととても疑問でした。
彼女の正体を知る唯一の記録が、彼女の曾孫五左衛門の残した書状です(『大日本史料』に収録)。

そもそも、いちやさんの息子とその孫が共に五左衛門という同じ通称を名乗っているのでややこしいですね。
そしてどうやってか大坂の陣を生き残り、大坂城の金銭について聞かれた後突然出先で亡くなっているいちやさんの息子も謎です。

矢野家の史料にせめて戒名だけでも残っていないか調査を続けたいと思います。


女官/女房/侍女 目次一覧
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Comment

はじめまして、こんばんわ
秀頼の子供達に興味があり、調べていたところ
お伊茶の方の存在をしり、調べて行くうちに
このブログに出会いました^^

この記事を見る限り、伊茶には秀頼以外の男性との間に
子供がいるので、天秀尼の生母である可能性は低い気がしますが
色んな本やネットではお伊茶の方が生母であると書かれているのは
問題がある気がしますね・・

成田氏についても、甲斐姫生家の成田氏であると書かれたものは
江戸時代中期以降だと聞いたことがあります
それ以前に資料には、伊勢成田氏だと書かれていたと見たのですが
信憑性としては低いでしょうか
伊勢成田氏の知名度が低く、甲斐姫生家だと誤解されたのかも
と思ったことがあります

秀頼側室の1人とされる、小岩の方は伊勢氏出身であることが分かっていますが
当時の資料には、女官として仕えていたことは分かりますが
側室になり子供を産んだとは書かれていませんので
やはり、秀頼の子供の生母ではないんでしょうかね

2017.12.30 | [URL] | Edit

Re: タイトルなし

はじめまして。コメントありがとうございます。
しばらく活動しておらず、お返事が遅くなり申し訳ありません。

このブログも調査の過程を記録しているものですので、ご覧になった記事ごとに私の考えも変わっている場合もありまして、あまりご参考にならず申し訳ないです。

伊茶については、天秀尼の生母でありえない根拠としての他の人物との間の子ども私は不勉強にして存じ上げません。

成田氏については現在は私も同様の考えです。

お石についても、ブログにまとめております以上のことは存じ上げませんが、
生母としての記録は系図資料ですが揚げている通りですので、可能性を否定はできないかなと考えております。

私は不勉強ですし、最近はブランクもございますので、書かれてあることがお持ちの情報と違うことも多々あると思いますが、その場合はもしよろしければ論拠を添えてご訂正いただけるとありがたいです。

2022.01.07 | 紀伊[URL] | Edit

    
プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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