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茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究日記(こちらが現行版になります)

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饗庭局

 
生年: 不詳(天文二十三〔1554〕年ごろ?)
没年: 慶長二十(1615)年五月八日〔宗正寺位牌〕

名: 不詳

称:
・「あい者(は)」〔醍醐花見短冊〕
・「アイバ殿」〔三好家過去帳〕
・「あいば殿」〔色部文書(大蔵卿局書状)、輝資卿記、続撰清正記〕
・「あいばとの」〔豊国石灯籠之覚書、筑紫古文書〕
・「饗庭様」〔資勝卿記〕
・「御いば殿」〔山内家文書(大蔵卿局書状)〕
・「饗庭」〔土屋知貞私記〕
・「相庭(アイバ)殿」〔駿府記〕
・「饗庭ノ局」〔慶元記〕
・「饗場局」〔豊内記、難波戦記、大坂籠城記、諸系譜〕
・「アイバノ局」〔豊内記〕
・「饗場」〔元寛日記〕
・「饗場ノ局」〔慶長見聞書〕
・「相庭局」〔駿府記、大坂冬陣記〕
・「饗庭局」〔宗正寺位牌、難波戦記〕
・「あいは殿」〔甲子夜話〕
(海津付近ある地名「饗庭」(現高島市新旭町饗庭)が由来か。おそらく嫁いだ先が同地を本貫とする饗庭氏らしい。)

肩書:
慶長17年「大坂御上様之御内」〔三好家過去帳〕
(桑田忠親氏が『淀君』で「淀君の乳母」とするが、如何か)

戒名:
・起雲宗桂禅定尼
(「起雲宗桂禅定尼 逆修/生国江州高嶋郡 今ハ大坂御上様之御内アイバ殿為自身逆襲立之/慶長十七季十月十五日」〔三好家過去帳〕)
・新崇院青山浄真信女〔宗正寺位牌〕
・宗正寺に供養塔があるという〔高島郡誌〕


▽ 宗正寺
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▽ 供養塔?
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父: 浅井明政(石見守のち伊予守、出身は田屋氏)、海津政元(長門守)
・「忠海院殿従五下前石州刺史義山道勇大居士 三好家第五代 天正元年八月廿九日」〔三好家菩提寺過去帳〕
・「弓光院心岸浄哲大居士 海津長門守源政元 元亀二年三月十四日薨」〔宗正寺位牌〕

母: 浅井鶴千代(浅井亮政女、母は浅井蔵屋)
・「正宗院心月清玉大禅尼 内室浅井備前守祐政娘 天正五年九月廿一日薨」〔宗正寺位牌〕


姉: (調査中)
・海津殿(栖松院殿香甫宗因大禅定尼、~慶長七年二月十七日、海津局【光源院】の母カ、田屋式部少輔【喜左衛門】妻?)
「栖松院殿香甫宗因大禅定尼/施主江州高嶋郡田屋又助殿/為海津殿建之/慶長七年二月十七日逝去」 〔江州浅井家霊簿〕
「裞屋宗槃禅定門霊位/江州高島の郡□之住人/田屋式部少輔為慈父立之/慶長十年八月十三日」〔浅井家過去帳〕
田屋又助の項に「早世」とあり〔南部家蔵『浅井系図』〕
→田屋式部は夫、又助は息子か
「春月道光禅定門 霊位/大坂田屋喜左衛門殿タメニ/慶長十七年十月廿日」=田屋式部?〔三好家過去帳〕
「妙圓禅定門 逆襲/慶長十七年十月朔日」田屋式部妻=海津殿?〔三好家過去帳〕
・磯野某(佐和山城主)室の〔浅井系図(浅井合戦日記付属)〕?

姪?:
海津局(光源院、浅井政高妻、三好直政母)
「そ(三好左馬助直政)の生母は 御台所の従弟たればとて。これも召出さる」〔徳川実紀〕

夫?、子?:
饗庭備後守(清雲院前備州太守透活宗徹禅定門、慶長17年9月23日没)
・「清雲院前備州太守透活宗徹禅定門霊位/大坂御上様之御内アイバ殿立之也/慶長十七季九月廿三日命日」〔三好家過去帳〕
慶長十六年の時点で千石を食む〔慶長十六年禁裏御普請帳〕
兄(義兄?)田屋又助とともに秀頼の小姓(お伽衆?)だったという。なぜか兄弟で刃傷沙汰を起こして一方は殺され、一方は切腹という事態に…
(なお、慶長14(1609)年の時点で大仏の費用を賄った奉行の一人として饗庭民部という人物も登場する〔徳川実紀〕が饗庭局の関係者か否か不明)

出身地:生国江州高嶋〔三好家過去帳〕


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大津城講和


▽ 大津城跡(大津市)
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饗庭局の業績において特に目立つのは関ヶ原合戦、そして大坂の陣における使者としての役割です。

慶長五(1600)年、関ヶ原合戦を前に大津城では激しい攻防戦が繰り広げられておりました。
城の中には城主京極高次はもちろん、姉の松の丸殿(龍子)、そして高次の妻はお初の方でした。
松の丸殿の身を案じていたお寧は腹心の孝蔵主を遣わし交渉に当たっていましたが、高次がこれに応じることはありませんでした。

茶々姫も当然、縁の深い彼女たちを救いたい願っていたでしょう。 しかし茶々姫は当時真っ先に使者を送れる状況ではありませんでした。
こういう時に率先して使者として立っていた大蔵卿局が、息子(大野治長)が徳川方として参戦していたため、高次を西軍に降伏させるという使者には立てなかったのです。

そんなとき、茶々姫のもとに寧から共に交渉にあたってほしいという要請がきました。
暗礁に乗り上げた交渉を成立させるために、お寧は茶々姫がもつ高次・お初・松の丸殿との血のゆかりの深さに期待を寄せたのです。
結果、大蔵卿局不在のなか、使者として大津城に赴いたのは饗庭局(一部の資料では、「海津尼」)でした。
これは、お寧が血縁のもたらす効果に期待していることを知った茶々姫が、饗庭局を選んだのではないでしょうか。
饗庭局は見事、孝蔵主や高野山からの使者木食上人と協力し和睦を成立させ、松の丸殿を大津から京都西洞院邸まで送り届けました。



三十二義士



そして、また饗庭局の役割で注目されるのは大坂の陣です。
慶長十九(1614)年、方向寺鐘銘事件勃発の際には、相変わらず多忙を極める大蔵卿局とともに、駿府へ下向し、徳川家康へ弁解に赴いています。
冬の陣における講和の際には、徳川家康へ再度の血判を求めるため、常高院・二位局とともに饗庭局が使者に立ちます。
常高院は、茶々姫の意向を受けた饗庭局が戦火の大津城から救い出したお初その人です。
お初もまた、茶々姫や秀頼、そして侍女たちを救うために戦火の大坂城に入っていたのです。

しかし鐘銘事件の交渉では結果離間の計にかかり、そして冬の陣の講和すら罠でした。
度重なる罠に、大蔵卿局も饗庭局も、そもそも戦いは避けられぬよう仕掛けられたものであったことを悟ったかもしれませんが、それでも彼女たちは最期まで茶々姫の傍を離れませんでした。
もしかすると、最期まで浅井の縁にこだわり、守ろうとしていた茶々姫ですので、饗庭局も城を退くことを耳打ちされていたかもしれません。
それでも、饗庭局の名は三十二義士の一人として確かに刻まれています。
大蔵卿局とともに、いままでそうしてきたのと同じように、茶々姫の傍を守ってその自害を見届け、茶々姫の後に従いました。



略年表



・天正元年(1573)年
9月1日、浅井長政が小谷城赤尾屋敷で自害し、浅井本家が滅亡する。

・慶長3(1598)年
3月15日、醍醐の花見。
「今日ここに人ともみゆきの山桜 あかず千年の春を重ねむ あい者」
八月十八日、豊臣秀吉没。

・慶長5(1600)年
9月14日、寧の要請により寧の侍女孝蔵主とともに茶々姫の使者として大津城講和を実現させ、松の丸殿を救出する。

・慶長19(1614)年

8月、方広寺の鐘銘問題に際し、大蔵卿局らとともに駿府へ下向する。
12月、大坂冬の陣の講和の際、徳川家康のもとに再度の血判を求めに常高院や二位局とともに使者に立つ。

・慶長20(1615)年
5月、大坂夏の陣がおこる。
8日、大坂城山里曲輪糒櫓(異説あり)にて茶々姫に殉じて自害する。



〔ひとりごと〕
饗庭局は父母、姉とされる人物も夫とされる人物も複数説があったり、存在すらはっきりしていません。
どこかで彼女の存在に目をとめてくださる方が増えて、それこそ“本当”の饗庭局の姿が少しでも明らかになりますように。


参考:「井関家重と井関家の人びと 7」http://innaimae6z2.blogspot.jp/2014/09/blog-post_8.html(「西濱村字院内前陸零貳番邉り」)


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プロフィール

紀伊

Author:紀伊
茶々姫(浅井長政の娘、豊臣秀頼の母)を中心に、侍女、ご先祖の浅井家女性(祖母井口阿古など)、茶々の侍女やその子孫、養女羽柴完子とその子孫を追いかけています。
ちょこっとものを書かせていただいたり、お話しさせていただくことも。





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メモ「赤石いとこ」名義で記事を書かせていただきました。

悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ) 悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)(2009/06/06)
…改めて石田三成と茶々姫の“不義”を否定する記事を書かせていただきました。


メモ 参考資料としてご紹介いただきました。

めのとめのと
…茶々の乳母大蔵卿局を主人公描く歴史小説。茶々の祖母阿古の活躍も見どころ。
千姫 おんなの城 (PHP文芸文庫)千姫 おんなの城
…千の生涯を描いた作品。千が見た茶々をはじめとする人々の生き様、敗者が着せられた悪名が描かれる。


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